震災は生き方を変えたか。(曽祖母の記録より)

阪神大震災で倒壊した神戸の母の実家から出てきた写真の一枚です。「神奈川県立川崎託児所」という看板がかかっています。右後方の女性が私の曽祖母です。
以下は母から聞いた話です…関東大震災前、曽祖母は横浜で金持ち向けの幼稚園を営んでいました。曽祖父は体が弱くて若くして亡くなり、曽祖母も「金持ちのお嬢様」でかつ「寡婦」であったわけですが、とてもしっかりした「やり手」であったそうです。震災で横浜は壊滅状態となり、自宅も焼け、幼稚園も失ってしまいました。
いくらしっかり者でも自宅と仕事場を失ったら茫然自失となったはずだと思うのですが、曽祖母の手腕を見込んだ神奈川県から、川崎で貧困者向けの託児所をやってくれないかという要請が舞い込みました。震災後、一家の働き手を失い、母親が働きに出なくてはならなくなった家庭が数多く現れました。しかし女性が働くということに関して社会基盤は整っておらず、また震災後の混乱の中、「母親が働きに出たら子供をどうするか?」という問題を解決するには、まず託児所が必要だったのです。
曽祖母は迷ったそうです。横浜の父兄からは「早く幼稚園を再開して欲しい」という要請もあったからです。しかしいま、一番困っているのは誰で、一番社会的に必要とされていることは何か…?
曽祖母の決心を、当時フェリスの「お嬢さん」女学生であった祖母は、あまり喜ばなかったそうです。震災前はドイツ製のピアノもあるオシャレな暮らしをしていたのに…。
川崎託児所はそういう背景を持った子供さんを預かったため、親御さんには弁当を持たすような余裕もなく、子供が腹をすかせないように、曽祖母は朝早くから大きな鍋にいっぱいお粥を炊いて迎えたそうです。この記念写真からは、たしかに富裕とは言えない子供の様子と、自分の事業をなげうって社会を支えようとした曽祖母の気骨が伝わってきます。若くして夫を失った曽祖母は、母親たちの気持ちがわかったのかもしれません。曽祖母はこの託児所を16年あまり続けました。
…というまことにリッパな曽祖母の生き方を聞くにつけ、同じ震災経験者として、なんだか自分はまったくたいしたことをしてないなあと反省しきりです。震災は人の生き方を変えるのか…?けっきょくリッパな人は元からリッパで、凡人が震災経験を経て急遽偉人に変貌することはあまりないような気がしますが、自分も被災しながら人のために尽くした曽祖母の生き方には勇気づけられます。

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