町は「できる」もの?「つくる」もの?(ブログ開設5周年)

きょう8月13日は、このブログの5回目の誕生日です!皆さんご愛読、コメント、ありがとうございます!この1年更新があきぎみですが…がんばります!
このブログを最初に書いたのは2006年8月13日。始めたきっかけは、この年の4月から6月まで吹田市立博物館で市民企画でやった「千里ニュータウン展」に関わって、ああやっぱりニュータウンはすごいし面白いなと思ったことと、藤白台でも団地建替計画がもちあがって町内が騒然としてきたことがありました。
「千里ニュータウン展」は、本当に面白かった(大変だったけど…)。市民の企画で、44日間の会期中に通常の2年分ものお客さんが会場に来てくださったのです!これは楽しい思い出。
一方、団地建替では自治会関係の会合に行くと…もう、いろんなことがもめてしまってもつれてしまって、大の大人が大喧嘩していたのです。800戸もの戸数がある団地を建て替えるのは「町の作り変え」に等しいおおごとですから、誰も経験がない…その不安が権利主張になって、当事者から周辺住民から巻き込んで、藤白台が分解してしまうんじゃないか?と思うぐらいの状態でした。これは苦い思い出。
僕がブログ始めたからって、そんなことをどうにかできるとは全く思ってなかったですが、なんか、藤白台育ちとしては黙ってられなくなったのです。
僕はずっと広告会社でコピーライターをやってきたので、「書くことで何かを解決する」ことが、まあいわば仕事です。じゃあそれで町のことを何とかできないのか…?それと「千里ニュータウン展」の企画に加わって発見したのは、住民の立場で、千里ニュータウンの初期からずっと見てきてまだ(比較的)若い…というポジションが意外と貴重なことにも気がつきました。第一世代は皆さん高齢になってきているし、第二世代は多くが出ていってしまっているからです。最初を知ってて今も知っててネットも多少やる…文章力も(仕事柄)あるはず…となったら、これはなにか「書く」べきでは?
…ちょうどブログというものが普及してきていて、「千里ニュータウン展」でもそんなに盛り上がったのはブログ抜きではありえなかっただろう…ということがわかっていました。もちろん書けばいいというものじゃなく、コツはいるのですが、誰でもお金をかけずに情報を世の中に広く投げかけることができるようになったのです。
しかしなかなかふんぎりがつきませんでした。団地建替はデリケートな話題だし、「ネットに書く」ことは決してイージーな作業ではありません。「世の中に文章を投げる」ことは、一つ間違うと大変なことになってしまいます。ものを書くプロだからすらすら書ける…ということはなく、プロだから思いきり考えてしまうのです。ひとつ書いたら1000人が読むかもしれない…それぐらいの覚悟がないと、やけどをします。会社行ってるから一日中ネットを見張ってるわけにもいかないし。バズーカ砲を持って虎退治に行くようなもので、虎も怖いけどバズーカ砲の暴発も怖い。
それでも2006年8月13日に突然始めたのは、この日が青中で仲が良かった友達の5回目の命日だったからです。その友達は青中から茨高行って阪大の工学部の建築に行って…、僕は大学は東京に行ったのですが、長い夏休みに千里へ帰ってくると夜中に阪大工学部の建築の研究室に入れてもらって、千里ニュータウンの話をするのがとても楽しかった。大学生の夜中話だから「未来のまちづくり」をずっと熱く語っていた…というほど立派な話じゃぜんぜんなかったですが、自分たちが千里ニュータウンと一緒に育ってきた…という自覚はどちらにもあったと思います。この町と、自分たちは合わせ鏡のようなものなんじゃないだろうか?
友達は建築からCGが面白くなってコンテンツ開発の方向に行ったので「まちづくり」とは離れていきましたが、新しい表現手段を追求していた…という意味ではニュータウンっ子らしい進路だったと思います。ところがその道は「安定」とは遠かったためか、2001年8月13日、心臓発作で急逝しました。2回結婚して、会社作ってつぶして、忙しい人生だったな!まあしかし、なかなかのやつだった。これは悲しいけれど大切な思い出。
…という友達の魂に捧げて…というほどの気持ちでもないのですが、この日にブログを始めたら続くんじゃないかと思ったのですよ!だからこのブログは、阪大の研究室で夏の夜中にやった駄話のつづきです!
というわけで、きょうは友達がなくなってから10年の日でもあります。速いなあ10年。
この5年間、藤白台ほか千里ニュータウンでは団地建替もかなり進み、進路が見えてきたためか5年前のような「とげとげしい」雰囲気はなくなりました。高齢化も進む一方で、少しづつ、新しい住民も入ってきています。震災もあり、世界経済や日本経済はますます混迷していて、それは府や市の財政にも当然反映されるためいろいろな計画がスローダウンしているようですが…やはり千里の立地は強いです。これは動かない条件。
来年秋、千里ニュータウンは「まちびらき50周年」を迎えます。それは日本の大規模ニュータウンが半世紀になるということ。50年間、日本中のあちこちで、開発者も住民も膨大なエネルギーを注ぎ込んだ「ニュータウン」。それがもう古くなったとかダメになったとか、「終わったこと」みたいに言うのは、ほんとに考えが「浅い」です。まだ50年しかたってないのです。
今年は大震災もあって、直接被災した人だけじゃなく、多くの人が「ショック」を受けていることでしょう。自分たちがやってきたことは何だったのか…?僕もニュータウンについて書いてきて、それは「町をつくる」話ですから、そこへこのような巨大な破壊と喪失が起きて、直接まだ自分の目で見ていないし、とても整理がついていません。
でも町というものは、ニュータウンじゃないどんなに普通の町でも、そこには何かの「意志」があるわけです。街路樹の一本でも誰かが植えなければそこにはないし、小道の一つでも最初からあるわけではない。樹だって道だって植えたり造ったりするだけじゃダメで、誰かがメンテナンスし続けている。その総量は、すごいエネルギーです。
ならば今こそ「意志」が問われているんだろうなあ…と思うこのごろです。町は人に意志を問うのです。
いろんな思いが濃くなってしまって…でもこれからも楽しいブログにします!
※写真は1966年6月、できて2ヵ月の千里中央公園展望台で。手にしっかりと千里ニュータウンの地図を持ってます(去年のきょうのブログで真ん中に置いたやつ)。そのころから、ニュータウンが好きだったんだな。

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コメント

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  • コメント (22)

    • おかきた’まり
    • 2011年 8月 13日

    5周年、おめでとうございます! いろんなキッカケがあって始められたんですね。これからも1ページづつ、刻んでいってくださいっ。

    • 奥居武
    • 2011年 8月 13日

    ブログ始めるときに後押ししてくださったおかきたさんじゃないですか~。博物館ブログも立派に育ちましたよ。継続は力なりですね。今年の10月30日には泉北NTで「ニュータウン人・縁卓会議」がありますよ。

    • tcp1pp
    • 2011年 8月 13日

    おめでとうございます。
    いつも楽しく拝見しております。
    佐竹台で生まれ、小学校入学から5年間を
    藤白台で過ごし、その後転居しましたので
    今でも私の故郷は千里だと思っています。
    佐竹も藤白も、両方とも私の住んだ棟は
    建て替えが済み、寂しい限りです。

    • 奥居武
    • 2011年 8月 14日

    tcp 1ppさん、ありがとうございます。来年南千里にできる建設記念館ほかでは、千里ニュータウンの生活記録をいろいろ残していこうと考えてるみたいです。このブログでも佐竹台は30回ぐらい出てくるはずですから、サイト内検索してお楽しみください。北の端と南の端をおさえたら、真ん中は全部庭みたいなものですね…これからもどうぞよろしく。

    • 健ちゃん
    • 2011年 8月 14日

    ブログ開設満5年おめでとうございます。これ程の内容が詰まったブログを更新し続ける奥居武さんを藤白小・青中の先輩として尊敬します(一ヶ月だけの青中在校だったので後輩と認めていただけるかどうか…)。これからも楽しくまた懐かしさを感じながら拝見させていただきます。

    • 奥居武
    • 2011年 8月 14日

    健ちゃんさん、いつもありがとうございます。藤白台はつぎつぎ変わるし季節は巡るしで、とてもネタを拾いきれていない状態です。藤白台の外も行くしね…。府営のほうも工事が一部始まっているんですがなかなか手が回りません。でも少しずつ変わるので藤白台はやっぱり藤白台です。つぎの5年も10年もあっという間にたっちゃうんだろうな。藤白台の思い出を胸にがんばってくださいね~。

    • yamasin
    • 2011年 8月 14日

    開設5周年おめでとうございます!
    懐かしさで読み始めたブログですが、
    年に数回北千里へ足を運ぶようになりました。
    これからも楽しく拝見させてもらいます。

    • tcp1pp
    • 2011年 8月 14日

    ありがとうございます。記念館、とても楽しみです。
    旧千里センター資料室、とても懐かしく
    落ち着く場所だったので、あの場所が無くなった時は本当に残念でした。
    建設当時の映画を上映するとか、いろいろ期待しています。

    • 奥居武
    • 2011年 8月 14日

    yamasinさん、ありがとうございます。実際に来られるきっかけになっているのでしたら、うれしいです。北千里から見える景色もしだいに変わっていきますね。また貴重な古い写真でも出てきましたらお知らせください。

    • 奥居武
    • 2011年 8月 14日

    tcp 1ppさん、千里センターの資料室にあった資料は、大半を吹田市が引き取って保管しています。南千里の記念館にはこの内容も引き継がれるでしょうし、新たに寄贈を受けた資料も加わることになるのではないでしょうか…(スペースが限られているので当然再構成はされるでしょう)。豊中でも千里中央の千里図書館がニュータウン関係の図書を集めていますよ。ニュータウンを記録しようという動きは、静かに広がっています。

    • tcp1pp
    • 2011年 8月 14日

    ひとつお伝えすることを忘れていました。
    Wikipediaの「千里ニュータウン」に関する
    記述の一番初めは、私がおよその骨格を書きました。その後たくさんの方に修正いただきました。また、「南千里駅」に関する記述もかなり書きました。修正事項あればお知らせください。
    ただいま、南千里ガーデンモールができる前の
    商店に関する資料と、解体される南センタービルに関する資料を調べてまとめようとしています。旧阪急百貨店千里寮下にあった阪急オアシスと並んで、ソニーの電気店があったのですが詳細がわかりません。店名などご存知の方おられませんでしょうか。

    • 奥居武
    • 2011年 8月 15日

    そうでしたか…僕も少し加筆したことあります。ソニーの電気店についてはわかりません…てつさんとか知ってるかな?Wikipediaの記事で一番気になるのは説明が吹田-豊中の順になっている箇所と豊中-吹田の順になっている箇所が混在していることですが、これは編集合戦になりそうですねえ…。(笑)最初は全部吹田-豊中で揃っていたと思いますが。◎銭湯がなかったのは、竹見台ではなく津雲台と西町ではないでしょうか?この2住区には府営住宅がありませんから。竹見台には府営住宅がありますが…銭湯はどうだったのかな?◎写真のキャプション「吹田市役所南千里分室と吹田市立千里図書館が入る千里南センタービル」ははっきり間違っていて、吹田市役所南千里分室は全然別の場所だし吹田市立千里図書館が入っているのは増築部分ですから厳密には違う建物です。◎南千里駅の記述では、オアシスの移転の記述が違います。一時期、オアシスは佐竹台側と津雲台側の両方にありました。佐竹台側が「新千里山駅店」、津雲台側が「南センター店」と言っていましたから、北千里延長前だったかもわかりません。ああ、いっぱいわからないことありますね。自分が断片を覚えていることも曖昧で、かえって謎が深まってしまいます。そういえば南センタービルは昔、中の構造が全然違っていた記憶があるのですが(天井が高くて吹抜が広く、短いエスカレーターが東西方向についていた)、わかりますか?

    • tcp1pp
    • 2011年 8月 15日

    オアシスについてはそうですね。
    阪急千里寮の竣工が69年秋、
    南千里駅改札の移転が70年春なので、
    おそらく二店並列だった時期は1年ないと
    思われます。南センタービルにエスカレーターがあったのも覚えています。
    商店街吹き抜け北側中央にもありました。
    偉い人(笑)が来る時だけ赤い毛氈を引いてましたね・・・

    • 奥居武
    • 2011年 8月 15日

    オアシスに関しては、それで僕の記憶ともつじつまが合います。佐竹台側にあった店は「新千里山駅店」ではなく「新千里山店」で、駅名が南千里になってからも「新千里山店」で1970年春までやっていたのでしょう。短い間でも二店並列にしたのは、改札とバスのりばが佐竹台側にあったうちは、小さな店でも需要があったからだと思います。南センター店ができても新千里山店をやめなかったので、意外に思った記憶があります。ちなみに北千里も最初は「北センター店」でしたが、どこかのタイミングで「南千里店」「北千里店」に改称しているはずです。
    南センタービルのエスカレーターは普段はカバーをかけていて使わせず、偉い人が(笑)視察に来た時だけ動かす…というお役所ぶりで、母が怒っていました。吹抜の空間が今よりずっと大きかったような気がするのですが、子供だったからそう思えたのではないと思うんだけどなあ…?今の状態は床を増やすために中を大改造してしまっていて、すごくダサくなっています。オープン時はもっと格好良かったはず…しかしそれをはっきりと「ここはこうなっていた」と自分も言えないし説明できる人にも会ったことがないのです…現物がなくなる前にそういう記憶と記録もちゃんと整理しとかないと本当にわからなくなると思うのですが。現場を見る人が見れば、天井や床や壁のつぎ方でどこが改造部分かはわかると思うのですが…。ともあれ、エスカレーターはあったという証言を初めて得たのとオアシス二店の謎が解けたので、ありがとうございました!

    • 奥居武
    • 2011年 8月 15日

    ううーん、待てよ…阪急千里寮ができる前からオアシス南センター店の低層部分だけ先にあったような気がする…。写真集『千里山』の69pには、1969年8月として南センター店の中から撮った写真が出ています。119pには1970年1月として、オアシスの低層部分があって寮の北棟が完成間近で、南棟がない状態が出ています。オアシスの低層部分は二棟の間にあって、真下にあったのではないようです。二店並列だった時期はもう少し長かったのかもしれません。阪急の寮はまず万博のホステス寮として使ったはずなので、69年秋竣工の記録は着工かなにかではないでしょうか?1967年~69年夏の間にオアシスができて→万博直前に寮の北棟ができて→(たぶん万博後に)ペアになった南棟ができた…ような気がします。

    • ねねちょり
    • 2011年 8月 15日

    はじめまして。
    昨日初めてこのブログを見つけて懐かしく拝見させていただきました。
    私は昭和40年に藤白台に生まれ、ふじ白幼稚園に通い、藤白台小学校の1年生まで住んでいました。
    B26棟のベランダから展望台をいつも眺めて育ちました。
    これからもこのブログを楽しみに拝見させていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

    • 奥居武
    • 2011年 8月 15日

    ねねちょりさん、見つけてくださってありがとうございます。B26棟はひときわ西への眺望がいいんですよね(西日きつそうですけど…)。千里ニュータウンの中でも藤白台ほど西に景色が開けている地形の場所はなくて、なかでもB26棟は特等席だったと思います。前にD棟ができるまでは電車もよく見えたはずです。たくさん記事がありますのでゆっくりお読みください。たまに昔の写真もありますよ。

    • tcp1pp
    • 2011年 8月 15日

    一日だけの盆休みを利用して(笑)
    嫁さん子供放ったらかしで調べてきました(爆)
    阪急オアシス南センター店は、66年5月開店でした。阪急百貨店千里寮は、69年7月の写真ではまだ建設工事も始まっていませんでした。どちらも大阪府企業局の資料によります。よって、約4年程度オアシスが2店舗南千里にあった訳ですね。

    • 奥居武
    • 2011年 8月 15日

    tcp 1ppさんありがとうございます!そうですか、じゃあ北千里まで線路が伸びる前に南センター店はできてたんですね。それで店名が「南千里店」じゃなかった説明がつきます。駅名がそうじゃなかったから…。阪急の寮(北棟)は万博直前に完成して万国博協会ホステスの寮として使われてから、阪急の寮になりました。「水曜の朝、午前三時」(新潮文庫)はこの建物を舞台にした切ないラブストーリーです。
    http://senri-g1964.at.webry.info/200704/article_4.html
    こちらには万博ホステスさんの証言が。
    http://sui-haku.at.webry.info/200904/article_299.html
    http://sui-haku.at.webry.info/200904/article_310.html
    思い出が広がりますねえ…新千里山店のほうも、きちんと構造を調べておきたいのですがコンコースとの位置関係が今一つ不明瞭です。

    • こぼら
    • 2011年 8月 17日

    奥居武さんのなくなられたご親友のことですが・・・もしかしてすいはくカンチョーの2代目秘書だった方の弟さんではないでしょうか。彼があの世から、奥居武さんをすいはくに引っ張り込んだのかも・・・

    • 奥居武
    • 2011年 8月 17日

    カンチョーの2代目秘書は女性の方ですか?(でしょうね。)ちなみに家は藤白台じゃなく青中だったと言えば…。お母様は千里クラブに出入りしておられたようです。いずれにしても「千里ニュータウン展」のことを教えてくれたのは阪大の建築の方だったので、やっぱり引っ張り込まれたのかなとは思っています。

    • 奥居武
    • 2011年 8月 17日

    やはりそうでした。お盆にふさわしい展開ですね。近くの町内だと、人間関係すぐつながっちゃいますね。

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