静まりかえった月曜日
- 2009/5/19
- 藤白台
- まちあるき, 学校
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新型インフルエンザ対策で、学校は一週間休み!という連絡が回ってきたのは日曜日の朝。日曜日が静かなのは少子高齢化の藤白台ではいつでもそうなんですが(それに雨だったし…)、明けて月曜日の朝。
雨もやんで湿度も下がり、空はさわやかに晴れ上がった、まさに五月晴れ。英語ならBeautiful Dayと言うべき天気。しかし…子供の声がしない!うちは小学校に近いので、いつもだったら校庭にこだまする子供の声や校内放送が目覚ましがわりに聞こえてくるのですが…。土日でも野球の練習とかがあって、何も声が聞こえないってことはないのです。でもきょうは…
あまりのさわやかな天気と無音環境の組み合わせに、まるで天国みたいだな…と思ってしまいました。(行ったことないけど…)
阪大も金蘭も幼稚園も保育園も休みですから、人通りも少なく、町全体がまるで雪の朝のように静まりかえっていました。
駅のほうに下りていくと、こんな日でも公社A棟の建替工事は粛々と進められていました。それがまるで神聖な作業であるかのように…
コメント
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コメント (18)
いいですねぇ、このアングル。レンガ色だった部分が黒く見えるのは月日のせいでしょうか。木々も校舎を蔽うほどに大きくなって…卒業してから33年経ったのを改めて感じます。
私の在校中にインフルエンザなどで一週間も休校になった事は記憶に無いですね。よく阪急など私鉄ストで臨時休校になって弟とよろこんでいた思い出はあります{%笑いwebry%}
20年ぐらい前だったかなあ、それまで赤(レンガ色)と白のツートーンだった塗り分けが
http://senri-g1964.at.webry.info/200611/article_7.html
汚れてきて、アイボリー一色に塗り替えられてしまったのです。それも歳月で汚れて今日にいたる…というわけ。千里ニュータウンの学校は一校ごとにデザインが異なり、メンテナンスに苦労するらしいですが、標準化の意味合いもあったのでしょう。でもオリジナルの塗り分けに戻したら、私立校も真っ青のカワイイ姿になると思うんですよ。(で校庭を芝生にして…。)吹田市もお金がないので、体育館は数年前に耐震補強して、校舎は当面建替しないらしいですから、じゃあ素敵に使い込んでいくってことを考えたらいいんですよね。
ちなみに昔は道路からも校庭丸見えだったのですが、土手の植え込みが育って今は見通しがきかず、この写真はフェンスの網目にレンズを合わせて撮りました。
ほんに どうしたらいいの(^^ゞ
ぜんぶが 延期 中止
決めてた予定がぜんぶ飛び
意外なのだけ 残るけど 決めてた予定以外は
メモ帳に 書いていない(^^ゞ
私は便乗で会社休んでなかなか行けなかった歯医者に行って、冬物クリーニングに出して庭仕事して博物館ブログの整理して…でも会社でインフルエンザの疑いをかけられるのも面倒なので、けっきょく「健康だけど休みます」と断ることになったのでした。
北千里界隈の様子はこちらもどうぞ。
http://sui-haku.at.webry.info/200905/article_591.html
奥居武にも 会社の有給をすべて消化して
辞めよう という決断の日が来るのか?(^_^;
いや まぁ 多分 来ないだろぉ(^^ゞ
会社がイヤになることは1年に365回ぐらいありますが、今のところは…。それに粘ってもあと10年しかないや。
22日付毎日新聞(東京本社版)第2社会面に「インフル影響で玩具店破産申請-空港に出店-」といせやの記事が載ってました。あの北千里や南千里にあったいせやなんでしょうか?関空等の利用者激減のため売り上げを維持出来なかったのが原因となってます。
そうです その いせや さんです
他でも 懐かしむ 思いで話しで盛り上がっています
正直 親子2代 いや 私の親は 私と私の弟 私の子ども二人にも おもちゃを買ったので
親子三代で利用 いや 存続してたら 親子子4代で利用になってたかも?
僕らの頃は プラモデル 子どもの(息子)頃は 主に
ミニ四駆でした
そおそう 昨日 高野台中学校の校長室を訪ねました
直接担任はしてもらってないんですが
なんでもやってたんで かわいがってもらってました
じゃんじゃんしゃべって 気づいたら 2時間近く経過していました(^^)
それは残念な話ですね。「いせや」は千里ニュータウンからはかなり以前に撤退していましたが…。「駸々堂」「いせや」…なじみのブランドが消えていくのは寂しいです。
この一週間、千里は学校が全部休みで「特別な静かさ」でしたが、てつさんは校長先生と話ができて、有意義でしたね。
お年玉、誕生日、お小遣い、クリスマス…本は駸々堂・おもちゃはいせやと、私を含めたあの頃の藤白・青山・古江の子供たちの思い出の中にあるものが、もうないんですよね。藤白小でお世話になった先生方も歳からいってもみな定年で学校に残っていないから、むかしばなしができるてつさんが羨ましいです{%うっとり(ぽわん)webry%}
藤小で一年生だった時の担任は下林先生という大学を出たての若い女の先生でした。熊本出身とのことでしたが生まれは満州…終戦間際に満州で生まれて引き揚げてきた先生がまだ新卒の22、3歳だった、そんな時代でした。あれから43年…今は60代なかばということになりますね。お元気かなあ。中国残留孤児のドラマを見て、ああ先生も同じ世代だったんだなと思い出しました。
あっ、下林先生は担任ではなかったですけどおぼえています。メガネをかけた目の大きい方だったような…。ちなみに私の一年時の担任は井上先生、二年時は森藤先生でした。
健ちゃんさん
定年退職したら 終わりではないと思います
最近 ネットの普及で減りましたが 年賀状で
年に一度 この人とは繋がっておきたいと
パソコンで一応つくりますが 必ず直筆で少しコメントいれます
このお付き合いは 大事にしたい
退職した先生の家の工事を昨年 僕はしたし
先週 その家に行き たくさんお話もしました
中学を出たあと 高校生や大学に行ってた頃も
家庭科の先生だったので どこへ転任されても
追いかけて行き 食材持ち込み 一緒に食べました
僕は バスケット部だったので 顧問は 数年前の教育長の今記先生 豊津西中で なんどか 家庭科室で 食べましたよ♪
「ゆびとま」で 検索して 登録したら その先生たちに繋がることもあります 僕は SNSを使い 昔の友人を見つけました ミッフィの社長になってましたよ(^^)
あと5日で50なんですが…定年まで10年ってのは短いような長いような…60になったとき「もう稼がなくていいや!」って身分になれてるかどうか…?(はなはだ疑問)まあしかし昔お世話になった先生にも会いたいなあ~。青中は同窓会やってるけど、小学校はずっとやってない…。下林先生は「メガネをかけた目の大きい方」そのとおりです!2年は大野先生、3年は森本先生、4年は青柳先生、5-6年は上田先生…「ゆびとま」で探すって手もあるけど、なんとなく「会いたいなあ」って思ってる気分を楽しんでるのかもね。1970年前後の千里の小中学校、新設校ばっかりで大量採用したために先生も若い先生ばっかりで(かつ団塊の世代で)、「やりたい放題」の青春ドラマみたいな世界だった…と、最近ある先生からうかがいました。団塊の世代は千里ニュータウンの住民には少なかったので(初期住民の親子のちょうど真ん中)、逆に言うと千里に出入りしてた20代は先生ばっかり…若い先生はお母さん方にもオオウケ!いろいろすったもんだもありましたが自由な雰囲気の時代でした。
うん、青柳先生も微かですがおぼえています。一年時に時々業間に遊んでもらったような、特に女子に人気があったような記憶があります。
てつさんの御意見はもっともです。ただ、藤白を離れて三十余年、遠く離れた福島のいわきに住み、しかもどちらかといえば引っ込み思案の目立たない生徒だった私を先生が憶えて下さって居られるか…もし藤白小の同窓会が開かれるようなことがあれば万難を排して駆けつけたい気持ちをもっています。できればお世話になった各先生とお話しもしたいんです。青中は一か月しか在席しなかったのですが、担任だった音楽の宗林先生にはよくして頂きましたので是非会ってお礼を伝えたい気持で今もいます。
宗林先生には僕も担任持っていただきました。何年か前に同窓会でお会いしましたがお元気でしたよ!先生って(学年が多少ずれてても)共通の思い出のよすがですね。青中に関してはこんなサイトがあります(僕の期の分だけですが…)。
http://aochu11.cside3.jp/index.html