関東大震災の犠牲者に祈りを捧げる。(1923年9月)
- 2008/1/20
- 災害体験
- まちの記憶, 震災
- 2 comments
ブログの主題から少々外れてきていますが、震災経験者としては皆さんに「備え」をしていただきたいのと、防災とまちづくりはやはり繋がってきますので、あと少しおつきあいください。
阪神大震災で倒壊した神戸の母の実家から出てきた「古い写真」の一枚です。右手前に何か山のようなものがあり、人々が頭を垂れて向き合っています。手を合わせている人もいます。写真の裏には「ヒフクショウ」というメモ書きがありました。
母にこの写真の説明を聞いたことがあります。これは関東大震災で亡くなったたくさんの人たちを野焼きにした時の写真だと…。母方の家はもともと横浜から神戸へ移ってきたので、祖父母は関東大震災も経験しているのでした。祖母の家は横浜の関内にあり、このときの火災で焼失したと聞いています。当時、祖父母は両方とも学生で、母も生まれていませんから、写真のいわれは母も祖父か祖母から聞いたのでしょう。
関東大震災が起きたのは9月1日で、まだ暑い頃でした。このときは大勢の人が火災で亡くなりました。死者は10万名におよんだと言われています。それほど多くの人を、きちんと棺桶に入れて荼毘に伏すことはとてもできなかった。暑かったので遺体の傷みはとても速かった。だからこうやって野焼きにするしかなかったのだと…。写真の右手前に見える「山」は遺灰の山だということです。
「ヒフクショウ」とあるのは、ここだけで3.8万人もの人が火災旋風で亡くなった両国の「本所被服廠跡」のことでしょう。祖父母の家は横浜にあったのに、なぜ東京の被服廠の写真が残っているのかは、わかりません。そもそも祖母の家は焼けたはずなのに、震災以前の写真も残っているのは、親戚などから写真を分けてもらったのか…?ネットで調べてみるとこれと同じ写真が出ているサイトがあり(160コマ目)、「大正震災志写真帖・内務省社会局編」とあるので一般に流布していた写真だったのかもわかりません。ただ震災の痛みを伝える「話」だけが伝えられてきました。阪神大震災の瓦礫の下から関東大震災の写真が出てきたということが…途中、大水害や戦争もくぐりぬけて…ただ僕の心を掴みます。
遺灰の山に向けて頭を垂れ、手を合わせている人々の様子からは、このような形の弔いしかできず、ただ祈ることしかできない無念さや悲しみが深く伝わってきます。
コメント
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コメント (2)
写真を見て驚きました。私の家にも同じ写真があります。当時、母は横浜に住んでいて被災し家が焼失したそうです。写真は母の父(祖父)が持っていたもので、今は私の手元にあります。構図、人物ともまったく同じものです。縁のある方なのでしょうか?
そうですか!ブログ記事の後半に書いたように、この写真は同じ写真が(全く知らない)サイトにも出ているのです。ですからこれはプライベートに撮った写真ではなく、一般に広く流布していた報道写真のようなものだったかもわかりません。ネットもテレビもラジオさえない時代ですから、写真の形で情報を売る…というメディアのあり方があったのかもわかりません。災害に遭って無念な思い、せめてそれを広めることで次に役立てようという思い…関東大震災から90年近くにもなるのに、その気持ちは少しも変わりません。ひとりの死でさえ重いのに、何万人もの死はなんと重いことでしょう。