遠いところへ行った友達に
- 2008/4/20
- 千里ニュータウン
- まちの記憶, まちの人々, 自然
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土曜日は昨冬に早世した青中の同級生を偲ぶ会がありました。彼女は絵描きで、「型絵染め」や「刷り絵」と言われる手法を使って季節によりそう草花を美しい作品にしていましたが、病に斃れたのです。
青山台のモダンなUR(公団)の一室でとても日本的な絵を描いていたのですが、自然を身近に感じる感性はニュータウンが育てたものだったでしょうか。
青中の同級生が20人あまり、首都圏など遠くからも集まりました。卒業から33年…当時と住所が変わっていないのは1割以下、ニュータウン内で転居している人を合わせても2~3割、親がまだニュータウンに住んでいたり、自分もニュータウン周辺に住んでいるなど何らかの「縁」が残っている人を入れて半分、残り半分は、今はニュータウンと縁が切れている…といった比率でしょうか。33年でそれだけの移動は多いと見るか、少ないと見るか…。
僕らの世代は千里ニュータウンの中で一番多かった子供世代より少し上になりますから、同級生の動向を見ていると、ニュータウン第二世代のボリュームゾーンがこれからどう動いていくかをある程度察することができます。
明るい会にしようとしばし話に花を咲かせたのですが、故人の話や昔の思い出はもちろん、団地建替、親の介護・看取り、遠近両用コンタクト、子供の受験、孫ができた同級生…そんなことが話題になりました(一方で孫ができる話をしている時に、独身ってのはなんだか座りが悪かったりします…)。気がつくと、これから建替が進む団地のどの棟にも、誰か同級生が住んでいたような気がします。ベランダからは隣の棟の家が全部見えて、誰の家では晩ご飯は何時ごろか、そんなことも皆お互いに知っている関係でした。
先生も来られました。先生は今で言う「団塊の世代」ズバリで、同僚の先生はとにかく同世代ばっかりだったと。なんでも皆でやって、わけもなく熱くて、カタチができていない新設校でも面白かったと。1970年代前半の青山台中学校は、そういう学校でした。
「高齢化した親ともう一度同居してニュータウンに帰りたいけれど千里は物件が少ないし高いから…」という話も複数の同級生から出ました。こういう話を聞くと、団地建替が一刻も早く滞らずに進むことを願いたい気持ちになります。人が町に住み続けるためには、郷愁だけを語っているわけにはいきません。
全体の1割もいない、昔と同じ住所に住んでいる同級生の一人としては、千里ニュータウンの変化をしっかり見届けて、遠くへ行った友達が帰ってきたときや空の上から見たときにガッカリしないような町であるように、少しでも何かできることをやろうと。
絵描きの故人には足元にも及ばない「絵」ですが、公民館に咲く「花蘇芳」の画像を、この記事には添えることにします。花言葉は「豊かな生涯」。
コメント
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コメント (4)
タイトルでユーミンの「瞳を閉じて」がすぐ思い浮かびました。青中は一ヶ月で転校してしまったのですが、その時にもらったクラス全員からの手紙はもっていますし、級友(主に藤白小出身者)の顔も思い出します。
青中はともかく藤白小の同窓会は開催されているんでしょうか?私みたいにこの30年間に10回も転居を繰り替えしてる者には、同窓会通知は届く可能性は0に等しいですからね。奥居武さんみたいに地元にずっとすまわれている方が羨ましいです。
藤小の同窓会の案内は、僕ももらったことがありません…。友達は青中の同窓会にほぼ含まれているわけですが、小学校の先生に会いたいナー…と、ときどき思います。記憶の中では20代のままですが、60前後になっておられるはずなんですが…。
高校を卒業して、就職で大阪に出てきました。
私はある意味、田舎を捨てました。
閉鎖的で周りの監視の目が厳しく、自由がありませんでした。
親元を離れ、自分のしたい事を自由にやりました。
そして、妻と出会い3人の子供に恵まれました。
ニュータウン内外を転居すること3回、藤白台に辿り着きました。
これからの10年余りで藤白台の住環境は激変するでしょう。しかし、今のままで世代交代が進めば・・・と思っています。
そして、田舎からの同窓会への誘いは、もう来ません。
ニュータウンは当初、人づき合いが薄いドライな街だと言われもしましたが、反面、しがらみのなさに多くの人が魅力を感じていたのも事実です。1960年代、まだ封建的な「ムラ」や「イエ」の問題は十分重いリアリティのあるテーマでした。千里ニュータウンはその対極にある(ように見える)街でした。それから40年、この町の「コミュニティ」は、当時からどれだけ進化したのでしょうか…?