ニュータウンと万博は「双子の未来都市」だというのは建築評論家の五十嵐太郎氏の言葉。未来には2通りあって、「現実化した未来」を示したのがニュータウン。「究極の未来」を提示するのが万博。「現実化した未来」はずっと存続して現実にもまれ続け、「究極の未来」は半年間で花火のように現れて消える…。千里丘陵にはかつて、この2種類の未来が隣り合ってあったというのです。
では、たった半年で消える運命の万博に、なぜ多くの人が惹かれるのでしょう?それはキャンドルのようなものかもしれません。消えるキャンドルをなぜともすのか?ゆらめく光、せつない音楽、人たちのざわめき、かすかな匂い…なにひとつ100年後には残らないけれど、「その前」と「そのあと」ではたしかに何かが変化するからでしょうか。
それは結局、「生きる」ことがそういうものだから?永遠に生きる人は、誰もいない。でも喜怒哀楽、いろんな花火のような感情を積み重ねて、「その人が生まれる前」と「その人が生きたあと」では、何かが変わっている。何も変えない人も、誰もいない。何かを夢見て、何かが残る。そのはかなさに共感するんじゃないでしょうか。
太古の帝国を築き上げて、いまは陽気に暮らしているイタリアの人たちを万博会場で見ていると、そんなことを考えちゃいました。(ニュータウンと万博の関係を考えていたら、数年ごとにバージョンを変えて現れる万博会場が、ニュータウンの建替団地のように見えてきました。自治会で少しもまれすぎたようです…)
この投稿は2015年5月3日にfacebookに投稿した文章に加筆したものです。
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