1970年の万博期間中、北大阪急行は千里中央駅手前のトンネルの中でぐわーんと90度右に曲がり、トンネルを出るとそこは千里阪急ホテルの前あたり。そこに千里中央の仮駅があって、中国自動車道の東行き車線を使って万国博中央口まで行っていた…ということをリアルで見た人も、今ではもう52歳以上になってしまいました。
中国自動車道はこの時点で吹田-豊中間(途中でちょっと伸びて池田まで)しか開通していない盲腸線でしたから、現在の西行き車線だけを対面通行にして半年間切り抜けていたわけです。
その、半年間しかなかった千里中央仮駅の痕跡がかろうじてわかるのが、千里阪急ホテルと千里朝日ビルの間から上新田に渡る「北新田橋」。途中で不自然に歩道が切り欠かれて狭くなっています。ここに、千里中央仮駅に下りる階段が接続していました。階段は写真で右手(西)に下り、折り返して左手(東)にさらに下りて橋の下をくぐり、ホテル前にあった対面式の狭いホームに接続していました。
当時の上新田は今のようにマンション群などありませんでしたから、北新田橋を南まで渡る人は少なかったのです。
本当に「仮駅」そのものの、簡素な駅とホームでした。現在の千里朝日ビルの敷地の東半分を使って仮のバスロータリーが設けられ、千里ニュータウンの阪急バスは北大阪急行開通に合わせてほとんどの路線が千里中央始発に切り替わりましたが、万博期間中は「千里中央」と「千里中央仮駅」に2回停まっていました。今使っている千里中央の本駅は、万博前にあらかじめ造っておかれましたが半年間は地下に眠っていて、地下1階のお店は何軒か入っていたものの人通りも少なかったため通路でキャッチボールができたそうです。
当時、世界最大のイベントのちょっと隣にあった過渡期の風景。今ではこの「歩道の切り欠き」だけが名残りを伝えています。6,400万人もの万博入場者のうち、37.9%の約2,400万人が北急ルートで会場に向かいました。まさにメインルートです。写真で上に写っているのは、大阪モノレールの軌道桁。これも出来たのは、1970年から20年後のことでした。
その頃の興奮を、万博マニアと言えばこの方、白井達郎さんに語っていただいたオンラインセミナーの記録ができました!万博輸送の最前線で頑張っていた人は、万博をまったく見られなかった…という話がリアルでした。あ~あ!超もったいない…と思ってしまいますが、巨大な渦の近くにいた人は、そういうものなんですよね。(阪急千里線にあった「万国博西口」駅については→こちら)
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