
夢洲では万博の開会式が行われていますが、こちらは別の世界への窓口。母の本棚から出てきた、戦後すぐのラジオ英会話のテキストです。今再放送をやっている「カムカムエヴリボディ」のオリジナルの本物です。
左が、終戦後すぐに出たラジオテキストの第一編。1945年10月20日の発行なので終戦からわずか2か月後です。定価は35銭。(わかりますか?1円の35/100です!)印刷と発売はなんと毎日新聞社です。真ん中は裏表紙ですが1947年2月の号(放送は3月用)。定価は3円。1年ちょっとで10倍近くに値上がりしています。「英語勉強のコツ!…あなたのラジオは,bとv,rとl,singとthingの音がはっきりと分離して聞こえますか?」…と、「雑音や混信のないビクターラジオ」の広告が入っています。右は1950年クリスマスの別冊号、その名も「カムカムクラブ」。表紙がカラーになっています。定価は40円。物価がどんどん上がった一方で、印刷物の仕様が向上したことがわかります。(中は白黒ですが写真特集のページまであります。)
なんでこんなものが家にあるかというと、母は戦前、アメリカ生活の経験がありました。自然に覚えた英語を帰国してから伏せ通して戦時中を切り抜け、やっと晴れて英語が勉強できる世の中になったのです。しかし当時のラジオ英会話は海外経験のあった人たちだけでなく、広く大流行したのです。この粗末なテキストが大ベストセラーになったと言われています。進駐軍さんがやってくるから…という実用上の理由だけでなく、「文化に飢えていた」気持ちが人々をラジオ英会話に飛びつかせたのではないでしょうか。数か月前まで「鬼畜米英」と言って実際に大勢の人が死んでいるのに、日本人の変わり身の早さにも驚きますが、日本人はそういう人たちなのでしょう。(それにしては英語が上手くならないな…ミーハーだからか…)
しかし母の家族にとって、戦前のアメリカの豊かさを享受して「こんな国に勝てるわけがない」と知りながら戦時下を我慢し、また周囲の価値観があっさり変わってしまったのを潜り抜けたことは、(いくらオープンな神戸という都会で暮らしていても)複雑な経験でもあったと思います。母は多感な十代でした。戦争中、昼は川西の軍需工場へ動員され、夜はこっそりアメリカから持ち帰った本を読んでいたのです。「世の中の価値観などアテにならないのだから適当につきあっておけばいいのだ」というニヒルさが、母方の家族に共通の雰囲気だったと思います。そういう態度はどこか不良的な雰囲気を家庭に持ち込んだのではないでしょうか。
それでも母は外国の人にずっと親切でした。自分がアメリカで外国人だった経験が根っこにあったからでしょう。70年万博の時は普通の専業主婦でしたが、チャンス到来とばかりいろいろな外国人スタッフに話しかけていました。そしてこの頃から、北千里のYWCAで英語を教えるようになりました。長年の「心のフタ」を取ったのは、明らかに万博だったと思います。カムカムエヴリボディ。外国の人と交流できる機会を持てることを素直に喜んだらいいのだと思います。
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