未来都市の入口
- 2007/1/7
- ニュータウン内, 千里ニュータウン
- まちあるき, まちの記憶
- 5 comments
千里ニュータウンの入口に誇らしげに立っていた60年代テイスト満点の「ここから千里ニュータウン」を告げるコンクリートの標柱。五月が丘から高野台・佐竹台に入る千里一号線沿い北側の茂みの中に再発見しました。
以前は緑地公園から桃山台に入る新御堂筋沿いの西側、箕面今宮から藤白台・青山台に入る千里二号線沿いにも同じ標柱が立っていたはずですが…いつの間にか姿を消したような?たった一つ?残ったこの標柱も大きくなった樹木に隠されてしまって、クルマからだとよっぽど脇見運転しないと目に入りそうもありません。(て言うか「横見運転」が必要なぐらいです)
しかもよく考えると、この標柱、道路の北側に東を向いて立っているのです。…東から千里ニュータウンに入るクルマに見せたいなら、道路の南側に立っているべきですよね?昔は周囲の樹も小さかったし道も若干カーブしているからこの位置で十分目立ったのか?何箇所かあった標柱を整理して、この場所一箇所に移したのか…?(事情をご存知の方、ご教示ください)
千里ニュータウンは周囲のスプロール化に埋没しないよう、周囲を緑地で囲み、このような標柱を立ててハッキリと千里ニュータウンの内と外がわかるように設計され、それが住民を閉鎖的にしたとか、いや「理想都市」のアイデンティティを保つためにはこのほうが良かったのだとか、いまだに賛否両論拮抗しているようです。他のニュータウンに行くと、千里ほど「ここからニュータウン!」ということがハッキリわかるほうがむしろ稀だということがわかります。
でもどうなんでしょう?せっかく日本初のニュータウンとして華々しくデビューし、多くの夢と理想を示してきた千里なんですから、この標柱もちゃんとリストアして、きっちり見えるように整備してあげたいと思うのは、僕だけ?
七尾から亥子谷を通って南千里に向かうルートは、新御堂筋ができる前は千里ニュータウンへのメインゲートでした。(1966年4月に昭和天皇が視察に来られた時もこのルートを使っています。)たまにクルマに乗せてもらって帰ってきたとき、この標柱を見るとホームタウンに帰り着いた安堵感と、ここからは未来都市だという高揚感を同時に感じたものです。
コメント
トラックバックは利用できません。
コメント (5)
同じく 子供の頃 ニュータウンから外に出た帰り この標注見て「ああ・・帰ってきたんだぁ~」って思ったもんです
確か 南千里のジャスコの近く 桃山台側にもあったと思いますよ
昨年の2月には とあるサイトで話題になってました^_^;
まだあるか また見ておきますね(^_-)
この標柱をみると、千里で育った子のふるさとと感じるエリアが、なぜ吹田市の境界ではなく、千里ニュータウンの境界だったかがわかりますね。こういった目に見えるかたちで、刷りこまれていったんだな。。。
他の標柱がなくなっていたとは知りませんでした。グレーター千里化するにしたがって、意味がなくなってきたからでしょう。それにコンクリ製だから、刷り込みされた者以外には、感傷をかんじることもなく、マニアックな遺物にしかみえないでしょうね。
綿密に全出入口を探し回ったわけではないので、まだ他に残っている所があるかもわかりません。千里山からジャスコの横を通って桃山台に下りてくる道も、NTへの重要なゲートウェイでしたね(特に新御堂筋開通以前)。昔は今以上に「峠を越える」という感じの道でした。てつさん、サイトが見つかりましたらまたお知らせください。
今日 帰りに確認してきました(^^)
南千里のジャスコの北 ローソンの向かいに ちゃぁんと 有りましたよぉ
さて この 標注を話題にしたサイトは ○クシィの「千里ニュータウン」のコミュで話題になってました
その コミュの管理人さんは あの 「くみかえの日」の監督さんだったと思います(^◇^)
てつさん、ありがとうございます!そこも写真撮りに行かなきゃ…「くみかえの日」の監督さんにもこのブログをお知らせしなくては!他の出入口ももう一度綿密に探したいものです。