2年ほど前に北千里地区の記録写真展を駅前でやったとき、北千里小学校の開校当初の資料を拝見する機会があったのですが、その中に「橋のある学校」という言葉がありました。
もともとニュータウン計画に織り込まれていなかったため、校舎と校庭が幹線道路で分断され専用の歩道橋で結ぶという立地の悪さをカバーする、北小関係者の気概が伝わってくる言葉のようでした。
過疎の村でもなく、ものすごく古い学校というわけでもないのに廃校になってしまうということは、卒業生は寂しいことだろうと思います。僕は卒業生ではないのでその気持ちは想像するしかないのですが、北小ができたときには青中の窓から見ていたので、町の歴史が一区切り回ったんだなと、歳月の速さを思います。「橋のある学校」が36年間ここにあったことを、地域の人たちは忘れないでしょう。
北千里小学校を卒業された皆さん、世の中に橋を架ける人になってくださいね!

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コメント

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  • コメント (12)

    • てつ
    • 2009年 4月 01日

    カタチあるものはいつかはなくなる
    かもしれませんが 学校がなくなるのは寂しいものです
    今年 ここいらでは 豊中の小路高校や 鳥飼高校もラストで さよならイベントをしていました
    田舎の過疎の村で 創立100年を越える学校が廃校になるのではなく
    一世代上の僕らは 子供が増え 学校がどんどん増え 
    新設校を歩んだ僕ら(小学校?期 中学4期生 高校3期生)体育館もプールも無く はたまた 高校なんてグラウンドもないなか あ・・ 高校は 校歌もなく 悔しいので 出来るまで 自分達で勝ってに造って歌ってました
    鳥飼も小路も 歴史は浅い高校と聞きます 
    母校 母港・・・ 帰るところがなくなるのは 残念です 

    • 峠の山賊
    • 2009年 4月 01日

    はじめまして。峠の山賊と申します。
    昨秋よりちょこちょこ拝見しています。
    40年前、この小学校の真ん前に住んでいました。青中の少し先輩になると思います。
    当時は、まだ小学校ができる前で、暫くしてNTを離れましたので、できたことも、なくなったことも知りませんでした。
    ちょっと面白い写真があります。後の運動場のあたりから見た、橋のないころの北千里。
    こちらのアドレスでご覧いただけます。
    http://www.d1.dion.ne.jp/~sentaka/memo-20090401.htm
    なお、写真は父が生前に撮影したものです。

    • 奥居武
    • 2009年 4月 01日

    「新設校で校歌がないので勝手に作って歌っていた」っていう話は面白いですね~。そういえば藤小も僕が在学している途中まで校歌はありませんでした。
    峠の山賊さん、貴重な写真をありがとうございます!阪急の架道橋もありませんね~正面の三色彩道の並木も小さい!サティもない!でもたしかにのちの北小の校庭部分からだってことはC74が動かぬ証拠…ここは空き地だったんですよね。

    • てつ
    • 2009年 4月 01日

    やはり 体育祭で 校歌がないと盛り上がらない(^_^;
    万博外周にあった ドライブインシアターの 2代目支配人やってたやつと つくりました(今は瀬戸内海でカヌーツーリング会社経営)
    でも 歌詞や楽譜が残ってないんだよなぁ~~~(^^ゞ

    • 2009年 4月 01日

    以前一度コメントいたしました札幌の三です。
    私は北小の一期生です。
    廃校に際し、いろんな思いがよぎります。
    校舎と校庭が離れているため、2時間目と3時間目の間に20分の業間があり、ほとんど全児童がこの陸橋を渡り校庭で遊んだものでした。
    峠の山賊さんの写真の北小が出来る前の空き地でコント55号の映画のロケをしていた記憶があります。なんていう映画だったか思い出せないのですが・・・。

    • 奥居武
    • 2009年 4月 02日

    これはまた、すごい思い出が出てきましたね。千里ニュータウン近辺で撮られた映画はチェックしていますがコント55号は初耳です。こちらによれば
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%8855%E5%8F%B7#.E6.98.A0.E7.94.BB
    数年の間にいっぱいあって、ちょうど北小校庭の用地がざっくり造成されてから空き地だった年月と、コント55号の映画が続々作られた年月が重なっています。
    写真集「千里山」(102p)には、この空き地で自動車の展示会が行われていた様子も写っています。そんな空き地で自動車が売れたのか?ということですが、「ディーラーに行って商談をする」スタイルが確立したのは1970年代後半で、それ以前は訪問販売が主流でしたから、広い空き地に見にきてください…という売り方があってもおかしくはありません。

    • てつ
    • 2009年 4月 02日

    身近な情報では ちょこまかあります
    こないだの日曜 ニュータウンの少し人気の
    ラーメン屋さんに ピンクの電話のみやこちゃんが来たとか(^^ゞ
    まっ コント55号ほどビックぢゃないけど{%泣くwebry%}
    橋はなかったけど 津雲台小学校の人口増加に伴う 5丁目ロータリーのところに出来た4年生校舎は 僕は 一期生です
    本当の校舎から離れすぎてたんで
    給食室は 別置きで 4年生6クラスの為だけにありました(^^ゞ
    全校朝礼の為 上の校庭に行くには 15分前に教室を出ました
    そんな時代 今は 老健??

    • 奥居武
    • 2009年 4月 02日

    そうですか、津雲台小学校も、かなりアクロバティックなことをやって児童増加の急場をしのいでいたんですね…。給食室が別にあったってのが面白いですね。小学校が老健に変わったら、それは静かになるでしょう。藤白台はまだ賑やかなほうですが、それでも昔に比べたら外で遊ぶ子供が減ったと思います。ゲームやってるって説もあるけど。

    • 健ちゃん
    • 2009年 4月 02日

    記事を見て、サイモン&ガンファンクルの「明日へ架ける橋」が思い浮かびました。東の多摩ニュータウンでも小、中学校そして私が卒業した都立高も25年で廃校になりました。さびしいですね。

    • 奥居武
    • 2009年 4月 03日

    「橋」は未来への希望を感じさせるものでもありますね。北小の校舎は耐震性の問題から活用に制約があるようですが、多摩ニュータウンでは廃校跡をNPOの活動拠点にしている例もあります。
    http://www.tama-npo.org/
    この場所が「次の千里」に役立つ場所に使われるといいなと思います。

    • のん
    • 2009年 8月 23日

    はじめまして。三さんと違い、私は最後の卒業生です。今は青中に通っています。毎日北小の前を通るのでちょっとしんみりする時もありますが・・・
    昔からずっと20分の業間は変わらなかったのですね・・・

    • 奥居武
    • 2009年 8月 23日

    のんさんようこそ。一期生から最後の卒業生までコメントをいただいて光栄です。オセロだったら全部ひっくり返るところですね。青中だったら僕の後輩ですね。北小ができる1年前に僕は青中に入ったので、中学校の窓から空き地が小学校に変わっていくのを見ていました。北小ができた1973年の秋には石油の値段が上がって「トイレットペーパー買いだめ騒ぎ」が千里から全国に広がりました。同じころの新聞を見ると、先日亡くなった韓国の金大中氏が、東京のホテルから当時の韓国の諜報機関に拉致された…という事件が大きく出ています。山田駅ができたのも1973年の11月でした。青中生、がんばれ!

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