私の世界観は、世界中にニュータウンがあり、ニュータウンの中に世界があるという世界観なので、昨今の新大統領の「アメリカ合衆国孤立主義」を、ニュータウンにあてはめて考えてみました。
ある「理念」でもって地縁といったん切れた人たちが集合し、理想に燃えて新しい社会を造ろうとする点で、「アメリカ合衆国」と「ニュータウン」は似ています。(ニュータウンというコンセプトの発祥はイギリスです。)その社会は「開放性」と「孤立性」をたえず併せ持つことになります。開放性がなければ人が集まらないし、孤立性がなければ「同一性」…ある種のまとまり、アイデンティティを保ちにくくなるからです。元からの共通性がない人工のコミュニティでは、「仮想のアイデンティティ」はとりわけ強調されます。
千里ニュータウンは周辺の農村とははっきり区切られて設計され、壁はないですが「周辺緑地」と呼ばれるグリーンベルトで囲まれています。幹線道路が貫通している場所も絞られています。その囲まれた中で、ニュータウンは「理想」を追求します。緑地は大きく、道路は広く。容積率の制限は厳しいし、土地の用途はきっちり決められています。ごちゃごちゃした猥雑な場所は、ありません。それが好きな人も嫌いな人もいますが、そこに来た時点で「選び取って」いるわけですから、その理想はおおむね維持されます。
やがてその理想がそんなにいいものならば、それは一つの町を超えて広げるべきだ、という考えが出てきます。千里の例にならって日本では多数のニュータウンが建設されましたし、ニュータウンでない都市開発や整備にも、ニュータウン的な手法は応用されました。「パックス・アメリカーナ」ならぬ「パックス・ニュータウン」、「ニュータウン・グローバリズム」とでも呼べばいいでしょうか。それは土地固有の文化を無視しているとかいろいろな批判・軋轢を生みながら、やはり世界全体に秩序を与え、生活のレベルを上げる「モデル」的な役割をはたしてきました。
ところが、時代は変わり、モデルは古くなります。ニュータウンの「中」がさびついてきました。「ニュータウン再生」というスローガンと「メイク・アメリカ・グレート・アゲン」ってフレーズ、似てないでしょうか?
…という無理やりな「こじつけ」をやってみると、「完全な開放」も「完全な孤立」も同様にあり得ないだろうと気分になってきます。千里ニュータウンは何度も「千里市」として独立しようという話が出はするものの、仮想の話として終わっています。
ニュータウンの設計を見てみると、周辺に対して開放性が高いのは、泉北、つくば、港北など。孤立性が高いのは、千里、高蔵寺など。2つの系列が見られます。ただし千里はグリーンベルトで囲みはしたものの中環と新御堂という大幹線が東西南北に貫通していて、千里中央は北大阪全体から人を集めています。都心に近く利便性が高いため、人の出入り、活力がつねに保たれ、そのバランスで千里は「ええあんばい」になっています。
万博会場の跡地利用も、開放系と孤立系があるようです。千里万博公園は、完全に孤立系。上海は開放系。愛・地球博は?
「再生」がテーマになった時、その解決を「つながること」に求めるのか、「つながりを切ること」に求めるのか。もちろんニュータウンと国家じゃサイズが違いすぎます。この比喩は単なるマニアの思考遊戯です。しかしどうしても「メキシコとの国境に壁を造る」話が、ニュータウンの周辺緑地を思い出させてしまいます。「メイク・ニュータウン・グレート・アゲン!」
この投稿は2017年1月22日にfacebookに投稿した文章に加筆したものです。
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