団地移転の風景-6.ダスターシュート
- 2011/11/30
- 藤白台
- まちの記憶, 団地, 建替
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昭和の団地アイテムと言えば、出てくるのが、ダスターシュート。ごみの分別もなにもあったもんじゃないこのシステム、使われていた期間は意外と短かったようですが、大勢の住民に強烈な印象を残しているようです。(千里ニュータウンが始まった頃、ごみの収集は5種分別どころか、「燃えるごみ」と「燃えないごみ」の区別さえなかったと思います…)
まず…くさい!この写真でもわかるように、1階の住民にとっては上から落ちて破れたごみが至近距離で匂ってきます。それにここを踏み台にすると1階の住戸には防犯上の問題もあり、いささか理念先行ではずしてしまったモダンアイテムの代表と言えるでしょう。
もう住民の皆さんも出ていってポストにもガムテープが貼られ、静まりかえった住戸の入口…最後まで使われていた資源ごみ用のコンテナが、きれいに畳まれて置かれていました。
(この写真は住民退去後、敷地閉鎖直前に撮ったものです。)
コメント
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コメント (11)
今夜の居酒屋たんぽぽでも、ダスターシュートの話題には花が咲きましが、私より少し年上の世代には、小学校なんかにもあったとか、大阪市内のビルにもあったとかの話でした。ただ、団地と違いビルのゴミの行方は地下だったそうで臭いは地下のみだったそうです。
清掃車がゴミを回収したあと、
空のシュートに入って遊んだり(笑)
今思えば確かに臭かったな・・・
上からいろいろ入れてみたり、
生活の一部でしたね。
ポンと入れればハイおしまい…というイージーさが高度成長期のスピード感に合っていたのでしょう。そんな臭いとこよう入るわと思うけれど、子供はどこでも遊び場にしちゃいますからね。
はじめまして。
私は昭和41年から平成12年くらいまで、藤白台
で生活してました。
こんな懐かしいHPが・・・と嬉しく思っています。
そういえば焼却炉もありましたね。
小学生の頃、そこで焚き火をしてものすごく
怒られた記憶があります・・・。
toraさんも長く藤白台に住んでおられたのですね。焼却炉!これももういろいろあったようで、先日のオフ会でも点が悪いテスト燃やしたとか、かずかずの犯行が告白されていました。ダイオキシンが問題になってすたれてしまったようですが。
焼却炉で思いだしました。焼却炉の横にビンやカンを捨てるスペースがありました。酒や醤油やビールは酒屋 それ以外のみりんや酢インスタントコーヒーやクリープ、鯖カン、ほていの焼き鳥カンなんかを捨てに行きましたが、ブリーチはママレモンのポリ容器は燃やしてたかも^^;
団地中で飲んだビール瓶を集めたらけっこうな量になるでしょう。今は5種分別も徹底していますが、その過程と団地焼却炉の衰退はウラオモテの関係になっているようです。戸建だと空き地に燃やしに行ってたような気がしますが、庭で落ち葉たきもあったような気もします。そういうことに皆が寛容でしたね。
ビニールやプラスチックのゴミそのものが少なかったけど、時々「何燃やしてるんやろ?」ってぐらい悪臭のする時もありました。
煙突から燃え盛る火が、ふきあがるのを
ドキドキしながら見ていたことも。
燃えやすいようにって、焼却炉の中に灯油かけてる人もいたり・・・あの頃の日本人って{%困るwebry%}
無知の罪悪って怖いですね。
灯油をかけないとすると、火はどうやってつけていたんでしょう?(無知ですみません)新聞のたきつけにマッチで火をつけるとか?公団では何棟かおきに住棟の妻面に焼却炉がついていて煙突も5階の上まで伸びていたから臭いにくかったと思いますが、公社の焼却炉は住棟とは別で、煙突もそんなに高くなかった記憶があるので、なにか燃したらすぐに匂いが広がったでしょう。落ち葉焚きの季節ですが、最近ではそれさえとんと見ないですね…。
はじめまして。私はA-11棟に昭和49年まで暮らしていました。(小六まで)焼却炉では、結構ワルさもしましたね・・・懐かしい想い出です。そういえばダストシュートには収集後に何やら白い薬剤がまかれていたのを覚えています。万博以降はゴキブリが大量に発生していましたね。
casvalさん、コメントありがとうございます。A11棟はいま、仮囲いに囲まれて解体のときを待っています。白い薬剤は消臭剤+消毒剤だったのでしょうか。入口の脇にゴキブリ発生源を作ってしまったのは、設計者も「あ、これは失敗!」と思ったことでしょう。いつごろの団地までこの設備があったのか、調べてみたいものです。