あなたの大好きな街が壊れてしまっても
- 2006/12/9
- 災害体験
- まちの記憶, 神戸, 震災
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千里ブログなのに、また神戸ネタですみません…12/8からルミナリエが始まりました。言うまでもなくこの祭典には、震災で亡くなった方への鎮魂と、再生への希望が込められています。「死」と「生」の意味を「闇」と「光」に見るとき、ルミナリエは深く心に迫ってきます。
1995年1月17日、芦屋で一人暮らしをしていた私はこの震災に出遭いました。阪神間や神戸もまた、僕の大好きな町でした。神戸の東灘には母の育った実家があり、親戚も多くこの地域に住んでいましたし、僕自身、千里の前はやはり阪神間で育ったのです。幸い親戚に死者は出ませんでしたが、戦前からの皆の思い出が詰まった実家は全壊してしまいました。母の実家は外国帰りの元銀行マンの祖父に、英語ができてハイカラな祖母、母の3人の弟は上2人が貿易の仕事につき、一番下の弟は現在海外NPOの活動に従事していますから、「神戸」という町に強く感化された家族であったと言えるでしょう。
千里に越してきて新しい町がゼロから出来ていくのを見た僕は、たった20秒の振動で街のすべてが壊れてしまったのも見たことになります。
もし自分の街が一瞬にして壊滅状態になってしまったとしても、受け継がれていくものがあるとすれば、それは何でしょうか?カタチあるものだけが街なのか?街の人も、100年もたてばほぼ全員が入れ替わってしまう。そのときに残していくべき「街の記憶」とは何なのでしょうか?
ハイカラ好きの祖母は大阪万博の年に、祖父は震災の前年に亡くなり、震災後の12年間に叔父2人と母も亡くなりました。6人いた家族で今生きているのは一番下の叔父ひとりです。
でも、神戸はやはり神戸だし、だからこそ僕も足が向いてしまいます。
千里ニュータウンもいま、集合住宅の更新期を迎えて大きく揺れています。一度に作ったニュータウンでは、変化もまた一度に訪れることが「普通の町」とは決定的に違います。災害と建替えは違うことかもしれませんが、徐々に町が変わっていくのではなく、一度に変化が訪れるという意味では、やはり似た一面があります。建替えを迎える団地では、住民のほぼ4割が入れ替わるだろうと言われています。
それだけの急激な変化があっても、残った人間が伝えていくことは何なのか?「帰ってきたくなる」千里であるには、何を守り、どういった変化を許容すればいいのか?…その答えを、神戸の街に聞きに行ってしまうのかもしれません。
コメント
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コメント (2)
あ~やっぱり!って感じです。
奥居武さんには大阪の雰囲気がなかったのです。
いくら新しい千里の街時代に育ったとはいえ、大阪千里の方ではないと思ってました。
私も吹田に来る前は芦屋に居ましたが、所詮 子ども時代が田舎ですから、田舎者のキャラが消えません。
街の記憶などと考えなくとも、いつの間にか人の中に染み付いて残っていってるのかも知れませんよ。
人間が代替わりしても「DNA」が運ばれていくように、街にも「DNA」みたいなものがあって、人から人へ運ばれていくんでしょうね。
僕は本当に関西弁が下手なのです。千里育ちにしても下手すぎる…でも「標準語」でも神戸弁でもなくて、うすーい関西弁になってるようです。一度散髪屋に「ムリして関西弁で喋ろうとしなくていいですよ」なんて言われて…これが地だっつーの。でも最近の若い人の関西弁も、総じて薄くなってるような…「千里育ち」はやっぱり時代を先取りしてる?