診療所が…!
- 2007/2/9
- 藤白台
- まちあるき, まちの記憶
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ゆらら藤白台の南側にある診療所村。外科のあった区画が売りに出ていました。
千里ニュータウンは開発当時、住民の一番日常的な医療機関として、各町に一つずつ、近隣センターの横に各科の個人開業医を集めた「診療所村」が設けられました。この診療所は分譲で、お医者さんの住宅と兼用です。そのうえで専門医療が必要な場合は、南千里の新千里病院(現在の済生会千里病院)に連携するという「オープンシステム」が採用されました。
わが家は藤白台の診療所より入居が早かったため、最初しばらくはコドモが熱を出すと(って僕のことですが…)、自家用車もなかったし、タクシーを呼んで古江台や高野台の診療所まで行っていたのを覚えています。藤白台は「無医村」だったのです。帰りも足がなくて同じ方面の他の患者さんとタクシー相乗りで帰ってきたり、うかうか熱も出せない僻地でした。
1965年だったかと思いますが、藤白台に診療所ができたときは、近隣センターができたことより親は安心したかもしれません。まさに「闇夜の一灯」の気分でした。
1967年に新千里病院ができ、やがて診療所村以外の戸建区画にもポツポツ開業する人が現れ…循環器病センターはできるわ阪大病院は越してくるわ、2001年には北千里医療ビルが開業するわ…日常医療から高度専門医療までが揃って、「無医村」だったことが信じられないほど選択肢が増えたのです。
…このような変化の中で、でも診療所の一角が売りに出ているのを見た時はいささかショックでした。個人分譲としたために、当初からのお医者さんが高齢化すると診療をやめてしまい、一般の住宅になっていく…という現象が千里NTの他の町でも起きているようです。
一度に住民を入れたため世代構成が極端に偏っている千里ニュータウンでは、これから75歳以上の「後期高齢者」が急増します。選択肢が増えているとはいえ、そのときにどうやって私たちは藤白台の健康を守っていくのでしょうか。
コメント
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コメント (4)
高野台は、入口はそれぞれ別なのですが複数の診療科が連なった建物で、共同診療所といったつくりになっています。お医者さんの住居は別です。総称して「高野台診療所」と呼んでいました。てつさん、津雲台もそうじゃない?お世話になったことはないんだけれど、佐竹台診療所は、入口がひとつかな?当初は、このような簡易病院型のものが計画されていたのですが、諸般の事情から藤白台の診療所村型へ移行していったと聞いています。
高野台診療所でも、息子さんが後を継いでいるところもありますけれど、診療科目がかわったりしているようです。
千里NTは12ある住区が基本的に同じ構造を持っていますが、試行錯誤しながら徐々にあとから造った町では設計を変えていった部分もあります。特に初期に造った佐竹台、高野台、津雲台では試行錯誤の幅が大きいようです。診療所の形態もそうですね。古江台以降では、診療所村の形態が定着したようです。多摩NTでも近隣センターの横に千里と同じような診療所村があるのを見かけました。なんだか懐かしくなっちゃいましたよ。
津雲台は 入り口は違い 開所当時は 同じ造りの建物だったと記憶しています
同級生にも お医者様のお子さんもおられたなぁ~ 住居は 裏にあったと思います
僕は小学校4年で 虫垂炎の手術をしましたが 診察は 診療所で で・・ 手術の施設が無いので 当時の新千里病院で その診療所の先生が 午後から執刀してくれたと聞いています
そおいや 新千里病院は当時 どっかの紹介状がないと診てもらえないと聞いたなぁ~
てつさんが受けた虫垂炎の手術のシステムが、まさにオープンシステムってやつだったんだと思います。当時としては画期的だったようですよ。