団地の手づくり感
- 2012/10/30
- 藤白台
- まちあるき, 団地
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(前の記事からつづき)…そうです、博物館に収納したA9棟の住棟番号と6年前に幼稚園の角から写した現役時代のA9棟の住棟番号、よく見ると違っているではありませんか!博物館のは「9」の足がまっすぐ、幼稚園の角から写したのはラウンドを描いています。
住棟番号は東西両面にありますから東西のデザインが違ったのか?…しかし西面の写真は残念ながらありません。僕もこれはひょっとして同時期に解体された「A6棟」の住棟番号を上下さかさまに博物館で展示してしまったのか?…とも考えましたが…いやでもこれはバラバラにすると「6」と「9」はわからなくなるから、引き取った時点で確認しているはずだし…
そこでまだ残っている「A16棟」はどうなっているか、確認しに行ってみました。すると!
上の写真が東面、下の写真が西面。なんとA16棟では東西両面の住棟番号が違っていることを発見!
実は公社の住棟番号は補修の際に一回り小ぶりで太いものに取り替えられたものがあるのですが、このA16棟のはどちらも大きくて細く、どちらかがあとからの取替分であるとも考えにくいです。博物館にあるA9棟の住棟番号も、たぶん最初からのタイプではないかと…?
ということは、A9棟も最初から東西両面の住棟番号はデザインの細部が違っていた…ことになるのでしょうか?大量生産の規格品の典型のように言われる高度成長期の団地ですが、実はけっこう手づくりの結晶なのかもしれません。
(詳しい事情をご存じの方、コメント欄に情報を頂けるとうれしいです。)
コメント
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コメント (9)
詳しくはないですが 博物館で実際に見たものは 属に言う「フラットバー」を繋げたもので ブラケットもとても手作り感のある溶接でした(一応溶接の資格は持ってます)
同じ建物で自体が異なるとは考えにくいし、塗装時に取り替えたとの記憶もないんで不思議に思います
博物館たよりの滑り台の僕の白黒写真は 公社津雲台のA9棟の前から撮ったもので 後方に見えるのがA11棟 妻面の窓も見えてますね 逆からの写真が残ってれば9の謎にも迫れるかも(爆)
なんとまぁ 探せばあるもんで 津雲台公社の2007年のA9棟の棟ナンバーの写った画像が数千枚の画像の中からたった今発掘さてましたので メールにて送りました 残ってるもんですね{%笑いwebry%}
府営はコストダウンしないといけないので設計はどこの団地でも共通性が高く、公団は公団で全国規格なので共通性が高いですが、公社は「ちょっと上」の個性を出そうとしたのか建物のタイプもいろいろあります。住棟番号に個性があるのもそのあらわれ?
ところでこの藤白台公社の住棟番号、よく見るとA.16とピリオドが入っているのも細かいこだわりです。47年間見続けて、こないだ気がつきました。
主様こんばんは。
先日タイムスリップ館、南千里と佐竹台、見てきました!元住民の方に日がくれる迄‼みかんを頂きながら千里話を聞かせて頂きまして、1970年の時にタイムスリップしたような気持ちで過ごしました。今週末は博物館がタダなので行こうと思っております。
それはそうと先週末、東京八王子へ行ったのですが明け方夜行バス降りてテクテク歩いてたら古い団地があり設備とかが千里にすごく似ており、ダストシュートの蓋が見受けられここにもあったのかと関心しました。日本にどれだけあるのか興味が湧きます。
そうですかみかんが出ましたか…さすが千里はもてなしマインド満点ですね。数え方にもよりますが、日本にあるニュータウン、団地は、2000を下らないといわれています。
http://tochi.mlit.go.jp/shoyuu-riyou/takuchikyokyu
同じ時期に作られた団地は遠く離れていても共通の設計になっている部分が多く、デジャブ感が味わえるのが面白いところ。ということは建物だけじゃなく住民の生活とか、悩みとか、夢とか、そんなことも語り合えることがたくさんあるんじゃないかと思いますね。千里は「千の里」あるんです。
はじめまして。
本日、ホントに久しぶりに読ませて頂いたので
思い切り遅いコメントですみません。
建築時から私が結婚するまで某棟に住んでました。
住棟番号ですが、最初は片側しかなかったんです。
府営住宅『B』は最初から両側についていて、
『A』は片側。ずっと何故かな?と思ってました。
いつ付けられたか、もう記憶にないんですが
『これで府営住宅と同じで、どっちから見ても
何棟か分かるな』と思ったのを覚えてます。
新しく付けられた方が少し小さめだったような?
文字の形までは気がついてなかったです(笑)
kasumiさん、貴重な証言ありがとうございます!「A棟では左右の住棟番号は最初からはなかった」…これで謎が解けました!実は先日「蔵出し」の古い写真を見ていて、「ふれあいの道」側(東側)から見た谷の下の住棟(A19-A26)に住棟番号が写っていないことに気がつきました。
http://senri-g1964.at.webry.info/201203/article_9.html
さらにこの写真を拡大して見ると、
http://senri-g1964.at.webry.info/201202/article_2.html
A3-A18棟では、谷側(西側)から見たときに住棟番号が写っていないようです。A1棟の北側、A2棟の西側には写っています。つまり最初は、A1は北側だけ、A2は西側だけ、A3-A18は東側だけ、A19-A26は西側だけにしか住棟番号がなく、その逆側は「ある時点で」あとから追加した、ということのようです。追加したのがいつだったのか?ですが、1983-84年の写真を再点検するとまだ片側しかないようで、1985年に外壁補修と塗り替えをやったという銘板が建物についているので、この時点でつけた可能性が大きいです。(つづく)
(前からのつづき)A1棟など数棟は、片側の住棟番号が小さいことは前から気がついていて、それは「傷んだので取り替えた」のだと思っていましたが、あとから追加した分だったんでしょうね…。ただし追加分全部の住棟番号が小さかったわけではなく(ここがややこしいのですが)、このA16棟などはどちらも同じ大きさで書体だけが違うように見えるのです。住棟番号が片側だけ小さい分は、はっきり「小さい」とわかりましたから(それに少し太かった)。たぶん追加分を作るときに試行錯誤があったのではないでしょうか。疑問をここに書いておいてよかった~。ついこないだまで40数年見続けた建物でも、消えてしまうと「あれどうだったかな?」とわからないことがけっこうあるものです。皆さんのコメントで謎が解けていくのはネットの面白いところですね。