父の十三回忌で、菩提寺がある滋賀県の彦根まで行ってきました。大阪から彦根までは、約100キロ。小旅行の距離です(東京からだと熱海までぐらいと同じです)。滋賀県の南部は大阪通勤圏になって人口が増え続けていますが、県北の彦根になると大阪まで通勤する人はごくまれにしかいません。ひっそりとした城下町で、「ひこにゃん」ブームやインバウンドで観光客も来るようになりましたが、今はそれも小休止です。
父は大学で大阪に出てきて、44歳で千里に家を買って、(父は次男で、僕の兄である長男が夭折していたため)59歳の時に墓も北摂霊園に作ってしまいましたが、法事はずっと彦根の菩提寺にお願いしていました。戒名も生前に菩提寺からいただいていました。
今の住職さんは、僕のいとこの同級生。いとこの家(父の実家)に泊まりに行ったら、家にあった古い刀をふざけてふりまわされた話、父やその兄弟姉妹の話、祖母が親戚の集まりで「歌謡曲」を歌った話、船長をやっていてアメリカとも行き来していた大叔父の話…。菩提寺というのは「人脈ネットワークのハブ」のようなもので、いろんな話が出てきます。
お寺が彦根に移ってきたのは、徳川幕府ができて間もない江戸の初期。お堂は元禄の大火で焼けて再建して、応接の書院は「ここは新しくて明治です」とのことでした。
9人もいた父の兄弟姉妹は、僕が小さかった頃の集まりではそれはにぎやかでしたが、今はあの世に行ってしまったり施設に入ったりで、半世紀前と同じ書院にいても、物音もせず回想だけがかすかによみがえってきます。
住職さんから伺う親戚の話は、外付けハードディスクから珍しいファイルを発見したようで、思い出を語る親戚も今日は誰もいないのに、そのやわらかな「彦根弁」も親戚と話しているようで、半分なつかしくて半分異国のようで、不思議な感覚になりました。
古い町というものは、そういう「外部記憶」があるのです。千里ニュータウンも、そこそこ58年では、まだまだ「外部記憶」の量でかないません。
城下町の彦根でも通りが拡幅されたりいろいろ変わっているのですが、「町の本質」に関する共通理解が出来上がっていることは、やはり400年の重みです。
額の書は「淡泊明志」。淡白で、はっきりとした意志を持つこと。この書は大正時代です。「続いている町」には、何かを示唆する仕掛けがあちこちにひそんでいます。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。