過去のことは、過去のこと。(震災30年)

1月後半に体調を崩してしまったのは、15日に大学最後の授業を終えて安堵したうえ17日に(震災当時住んでいて被災した)芦屋と神戸を寒中歩き回った疲れもあったのでしょう。「記念日症候群」と言って、つらいことがあった同じ日付が回ってくると、精神的にダウンする…といった影響もあったのかもわかりません。まして今回は「30年」で、テレビではしきりに「よりそう」のキーワードとともに関連番組が多数放送されていました。

私は「被災した」と言っても(たしかに震度7を激しく経験し、家財道具は全部ひっくり返ったわけですが)、住んでいた賃貸のマンションが「一部損壊」を食らっただけで、怪我をすることもなく、クルマ1台が倒れてきたブロック塀にアタックされてぼこぼこになり、3月まで窓も割れたまま走った末に廃車した程度の「被災」でした。もともと芦屋を引き払って千里に帰る準備をしていて、その日のうちに実家に逃げ帰ったまま転居した形になったので、避難所を経験することもありませんでした。

自分の人生の中では間違いなく「ターニング・ポイント」にはなりましたが、あの状況の中ではいたって「軽微な損害」というべきでしょう。

そのような中途半端な被災者からの視点ですが、「よりそう」というキーワードは、けっこうしんどかったです。「ともに」のほうが、まだ良かった。「被災経験が次の防災を強化する」というのはたしかに大切な視点ですが、発災直後は「体験した人」と「語る人、備えるべき人」は重なっていても、30年たつと両者はだんだんずれてきます。「体験した人」は齢をとっていくし、記憶の輪郭がしだいにぼやけていく。「忘れてはいけない」と言うけれど、忘れるのは人間の防衛機能でもあって、忘れるから生きていけるということも、たしかにあるのです。

一方、町は生きている限り世代交代は進み、神戸や阪神間に住んでいても30歳未満の人は全員、震災を知りません。「記憶がある」年齢になると、もう数年範囲は広がります。しかし「次に備えるべき人たち」は、その世代が中心になっていきます。被災体験をベースにしない防災の重要性が増していきます。1995年当時、テレビで防災番組なんてまったくありませんでしたが(本当に、ゼロに等しいぐらいありませんでした)その後「東日本」もあり、大きな地震が続いて、南海トラフや首都圏直下のリスクも迫っていると言われる中、防災情報は質量とも飛躍的に充実しました。

未来に向けて「次」に備えなくてはならない。しかし被災体験は「過去」になっていく。そのギャップが、苦しくなるのだと思います。

傷ついた町は、元の姿には戻らない。表面的に整えることはできますし、神戸のその努力は本当にすごいと思うけれど、いずれにしても歳月は流れていきます。「東日本」からでもすでに14年の歳月が経過しました。町は変わるから町なのであって、「姿」と「精神」を切り離して考えることも必要かもしれません。それはニュータウン再生にも必要な視点ではないかと思います。

町には、精神を継承しながら新しい物語を生産する力があります。その力があるのが「町」でしょう。建設も、社会学も、アートの力も必要です。神戸や阪神間にはその力があると信じています。「亡くなった方々のぶんも毎日を大切に生きて」いかなくちゃ!

(写真上は当時住んでいた芦屋の近辺で。坂の上から海が見えています。下はJR芦屋駅のショッピング街「MONT et MER」。山と海。阪神間の魅力はこれでしょう!いずれも2025年1月17日撮影)

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