阪神大震災の時、千里ニュータウンはどうだったのか?
- 2009/1/17
- 千里ニュータウン, 災害体験
- まちの記憶, 震災
- 8 comments
阪神大震災から14年…当時芦屋にいて震度7を経験した私にとっても忘れられない日です。
この震災で、千里一帯は「被災地」と呼ばれることはありません。しかし全く無傷であったわけでもありません。僕は「その瞬間」は芦屋にいたので「千里での揺れ」は経験していないのですが、その晩、クルマで4時間かけて藤白台まで逃げ帰ってきました。以後しばらくどんな様子であったのか?被災地でなかったためにかえって記録があまり出ていないようなので、書いてみたいと思います。
大阪での震度は「4」だったことになっています。中でも千里丘陵は台地ゆえ比較的揺れには強いと、一般的には思われているようです。倒壊した建物や、崩れた石垣などもありませんでした。電気・ガス・水道・電話の、いわゆる「ライフライン」も寸断されませんでした(電話のかかりにくい状態は数日続きました。携帯電話はまだ一般に普及し始めたばかりでした)。阪急千里線、北大阪急行とも、点検のために半日は止まりましたが、当日の午後には運転を再開したようです。
ホウホウの体で大渋滞の中をクルマを進め、3時間めにやっと武庫川を越えた私が思った言葉は「天国と地獄」でした。もちろん武庫川の東側が天国です。すでに日は暮れ、赤い満月が上り、武庫川の西側は停電で真っ暗で、東側はいつものように明かりがともり、お店も開いていました。帰り着いた藤白台は、まったく普通と変わらない「平和な夜」に見えました。
しかし家の中では、ガラス戸の入った重い本棚がひとつ倒れ、ガラスが粉々になって飛び散ったようです。廊下に置いてあった彫像も台から落下し、足が取れていました。芦屋で5階建ての団地がヨウカンのように倒れているのを見てきた目にはまことに「軽微」と言うべき被害でしたが、もし本棚が倒れる位置に家族が寝ていたら、大ケガでは済まなかったかもしれません。うちは「地震に強い」とされ震災後の阪神間で急増したプレハブ(軽量鉄骨)の2階建てで、ドアが歪むことさえありませんでしたが、建物が大丈夫でも中の家具は倒れたということです。
団地や老朽化した一戸建てでは、半壊とまではいかないけれど、壁が落ちたり床が抜けたり、かなりひどい被害を受けた建物もあったと聞いています。初期の中層団地にエレベーターがないことは、いま千里ニュータウンの大きな問題になっていますが、もし1995年の時点で、千里ニュータウンのすべての集合住宅にエレベーターがついていたら、どんなことになっていたでしょうか…?
翌18日、阪急千里線は定時運行になり、私は大阪都心の会社に出社しましたが、一番ショックだったことは、地下街で宣伝用のティッシュを配っている男がいたことでした。ほんの15kmも先では、町がメチャクチャになっているのに…。しかしよく見ると、阪神高速はまだ全線が不通で、閉めている店もあり、大阪都心でも震災の影は落ちていました。
千里近辺で不通になった幹線道はなかったようですが、神戸へ向かう道の渋滞は何ヵ月もひどいものだったと記憶しています。深夜、千里中央を通りかかった時に、真夜中なのに中環がびっしりとトラックの群れで全く動かない渋滞であったことを憶えています。かなり歳月がたってから中環が以前のように流れているのを見たとき、そんなあたりまえの光景がいかに貴重なことかを思い、胸がつまりました。
新千里北町の北町公園には、仮設住宅も造られました。千里ニュータウンにも仮設住宅があったのです。豊中市は南部の地盤が弱く、大阪府の中では最も多い全壊住宅を出しました。「大阪:震度4」は当時の精度での代表的な観測地点での話であって、地域によっては、揺れはもっと大きかったのではないでしょうか。現在は震度計の設置地点は大幅に増やされ、細かいメッシュでの計測が可能になっています。あの仮設住宅はどれぐらいの期間あったのでしょうか。
覚えておいていただきたいことは、建物が壊れなくても家具が倒れれば家の中でも危険は十分に起こりうるということ。千里ニュータウンは北に有馬高槻構造線が通り、西には上町断層の延長が走っていることがわかってきており、「大きな地震はもうない」という保証はどこにもありません。
千里ニュータウンは集合住宅の大規模更新が進み、耐震性の平均は上がっていくでしょうが、それだけで安全になると思うことは「油断」でしかありません。
皆様が経験した「千里での阪神大震災」の記憶があれば、コメント欄に書いていただければ幸いです。
コメント
トラックバックは利用できません。
コメント (8)
国立民族学博物館では大ショーケースのガラスが割れる、消火栓が放水、展示物が倒れるなどの被害があり、半年ほど展示をしめました。4階の研究室でも本箱が倒れ、大量の本のあった先生の部屋は、本棚が崩れて出入り不可能になったものがありました。
半年展示を閉めたというのは相当の被害ですね。近くの阪大病院でも、重い大型冷蔵庫が激しく振動し、そのときにできた傷がこれ…と(入院した時に)見せてもらったことがあります。当時築後数年の建物でそういうことがあったわけですから、新しい建物でも油断はできません。
14年も前になるんですねぇ。
恐怖で声をあげたのは、あの日が初めてでした。
明け方で部屋の中も暗かったはずなのに、
天井近くの照明が大きく揺れているのが見えて、
怖くて怖くて布団から顔だけ出していました。
揺れが一段落して、家の中を見渡すと
食器棚が倒れて、横着して開いていた扉から
食器が飛び出して床で割れていました。
あと、スピーカースタンドから、スピーカーが
吹っ飛んで床に傷がつきましたけど、
こんな程度の被害は、「ナイ」に等しいですよね。
我が家は、5階建ての5階部分なのですが
1階の人とは随分揺れが違ったようです。
地震翌日に、梅田に出たのですが街行く人々が
リュック背負ってる人が多かったような記憶があります。
団地が一棟まるごと倒れていたのに比べたら食器棚の転倒は「小さい」と思いがちですが、十分大変な被害ですね。怪我がなくて何よりでした。観音開きの扉は、閉めてあっても揺れで開いたと思います。
僕が繰り返し東京の知人などに言っているのは、家具が倒れる場所に「絶対に」寝ないこと、一日のうち長時間いる場所から優先的に危険を排除していくことです。
地震当日は、千里のお店は開いていたか、覚えておられますか?
地震当日は、テレビにはりついていたので
家から一歩も出ませんでした。
電気、ガス、水道に問題はなかったので
お店は開けれたとは思いますが、従業員の皆さんが
北千里駅に来れなかったでしょうね。
割れた食器の中には、お気に入りもあって
ちょっと残念だったけど、神戸のことを思うと
小さなことです。
ただ、食器棚には後日転倒防止の金具を取り付けました。
三連休が明けた火曜日でしたね。17日当日、JR芦屋駅前では駅ビルのガラスも割れ、人影もなく死んだ町のようで、ニュースで見たサラエボのようだと思ったことを覚えています。公衆電話にだけ長い行列ができていました。会社に連絡を取ろうと並びましたが全く列が進まずあきらめました。「店が開いている」ということが、町にとってどれほど大切なことか!
こんなに時間が経ってからコメントを書いていいか迷いましたが書きます。
阪神大震災当日、佐竹台の府営住宅(4階建て)の一階にすんでいました。
千里ニュータウンの中でも初期のほうに建てられた府営住宅です。
当時中2。揺れよりも「ゴォー!!」というなんとも言えない音で目が覚めました。
その直後の激しい縦揺れ。まだ子供だったので、当時よく言われていた「ノストラダムスの大予言」のこの世の終わりがすこし早く来た!と咄嗟に思いました。
一人暮らし用の冷蔵庫ほどある大きさのステレオが30センチほど動いたり、食器棚は開いて食器は多数割れました。
その日なんとか母が朝食を作ってくれて登校しましたが、半日で下校になりました。
あれから20年以上経ち、震度4も何度か経験しましたが、あの時の揺れとは全く違います。
芦屋では団地の棟まるごとがヨウカンのように傾いているのを見ました。ご無事で何よりでしたが子供の時の経験は大人とは違った怖さがあるでしょうね。