今から考えると信じられないような話ですが、開発当初、千里ニュータウンには一つも信号がありませんでした。
それほどクルマが少なかったと言うべきか…工事用車両はけっこう走っていたと思うのですが、一旦停止・右左確認で事足りていたのです。あちこちに信号機をつけるほど、日本はまだ豊かでなかったとも言えます。…しかしそれではさすがに安全が保てなくなり、千里ニュータウンで一番交通量が多かった交差点に信号機がつけられることになりました。それがここ、現在の「弘済院東」交差点。1965年11月16日のことでした。当時の新聞記事によれば「点灯式」が行われ、市議会議長や警察署長、住民代表が雨の中で渡り初めをしたと書かれています。当時はまだ中央環状も新御堂筋もなく、山田村から上新田を通って豊中に至る、東西を貫く唯一の旧道と、千里北地区と南地区を結ぶ唯一の南北道=千里2号線のクロスするのがこの交差点でした。北千里の駅はまだありませんでしたが、古江台・藤白台・青山台は入居が始まっていて、新千里山駅(現・南千里駅)から3住区に向かうバスは全てここを通っていました。
中央環状が築造されるまで、この交差点では竹林が現在のモノレールのあたりまで迫っていて、南北の切通しを開いた途中にいきなり東西の幹線道路(…って言っても片側一車線ですが…)が横切り、特に北から南に向かう車両と西から東へ向かう車両がお互い直前まで見通しが利かない危険な交差点でした。そこにニュータウンの南北交通と東西交通がすべて集中していたのです。
…僕は1964秋-66春まで高野台の玉川幼稚園に藤白台からスクールバスで通ってましたから(それが当時一番近い幼稚園だった!)、途中で信号がついたのはハッキリ覚えてます。ここから現在の北消防署の間が未舗装のクネクネ曲がった仮道しかできてなくて、「つづら折れ」の標識は立ってるわバスはがたがた揺れるわホコリは舞うわ、幼稚園に通うのも野越え山越えの難行苦行だったんだから!
信号がついたのと同じ頃から中央環状のアンダーパスを造る工事が始まり、1968年には津雲橋が架けられて竹林は北側に大きく後退し、見通しがえらく良くなりました。1973年には南東に山田駅ができ、1990年にはモノレールが真上に乗り、2003年にはDew阪急山田がオープンして、山の中の切通しだった交差点もすっかり都会?になってしまいました。シンジラレナ~イ変貌ぶりです。当時の雰囲気に近く見せようと、竹林をバックに撮ってみましたが…。
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コメント (2)
千里ニュータウン史を見てつくづく感じるのは、基本設計者のまじめすたことが、ドーサツ力の欠如につながったことです。その一つが、つい目先に迫っていたモータライぜーションを視野に入れなかった(入れようとしなかったのではないか?)こと。それは、はじめに信号機を付けなかった、駐車場をつくらなかったなどの事実にに明白に現れています。
おなじことは、狭い部屋、間取り、とくに風呂を入れなかったことが、ホクサンバスオール革命に通じるのではないでしょうか。
現在のモッタイナイとか環境保護運動にも見られることですが、あまりに現状に則しすぎて、倹約、倹約といいつのり、余裕をなくしてしまい、それが壮大な無駄につながるのではないかという恐れを抱きます。逆説的ですが、贅沢や無駄が文化を生むと考えることも必要ではないでしょうか。
昨今1960年代を美化する風潮が顕著ですが、高度成長期って、皆が目の前のことに必死で、荒っぽくて、つぎはぎで、相当オッチョコチョイな時代でもあったと思いますね。…というさまざまな瑕疵を差し引いても、やっぱり千里NTを構想実行した人はスゴイ!とは思いますが…。がたがたの未舗装七曲りの道を、スクールバスのシートから落っこちそうになりながら幼稚園に通ったスチャラカ幼稚園児としては、そういう「落ち着きのなさ」が自分の人間形成に深くしみこんでるに違いないと穴に入りたい気分です。