「みんぱく」(国立民族学博物館)名誉教授、2004年から2012年まで「すいはく」(吹田市立博物館)館長、千里文化財団前理事長の小山修三さんが、10月26日、おなくなりになりました。
「すいはく」で行われた2006年の市民企画「千里ニュータウン展」をきっかけに、大変お世話になりました。同展は44日間で同館2年分の来館者を集めてしまうほどの大評判となり、ニュータウンへの再注目に大きなきっかけを作りました。現代生活を題材にし、企画のすべてを「市民に丸投げ」するという大胆な手法で、吹田の市民活動に幅広い影響を残しました。
訃報がYahoo!ニュースにも上がってくるぐらいすごい人だったんだなと今さらあらためて気づいていますが、「市民生活の中の博物館」という存在を革命的に打ち出して、タクシーの運転手も場所を知らない「すいはく」を、「市民がいつでも遊びに行ける場所」に変え、市民とフラットに、オープンに遊んでくださいました。「地域博物館は市民の知のオリエンテーション・センターであるべきだ」という信念を明快に打ち出し、その点では全くブレることがありませんでした。一方では梅棹忠夫さん、小松左京さん…錚々たる知の巨人と市民が出会う場も作ってくださいました。全力投球のアジテーションに応えるように、市民もあらゆるものを「すいはく」に投げ込み、まさに「すいはく」は「枯れ木も山のにぎわい」を呈するに至ったのです。
僕が最初にお会いしたのは2005年12月、「千里ニュータウン展」の市民企画委員会に迷い込んだ時のことでした。僕は母を亡くした直後で、ただ会社の勉強会の取材に行っただけで、ふらふらと家にあった「バスオール」のぼろぼろのチラシを持参したところ、「すごい掘り出し物だ!」と喜んでくださって、そのまま委員会に入ることになってしまいました。その場は、おじさんおばさんが口角泡を飛ばして千里の夢を語り合っている大人の学級崩壊のような場で、誰が館長で誰が市民なのか、全くわかりませんでした。「はいこれ僕が浪人時代の名刺!」と、ゴジラの絵がついた名刺をくれたのが小山さんでした。その委員会ではかなり若いほうだった僕を「広告のプロ」であり「ニュータウンの証言者」として大切に扱ってくださったことで、その後の自分の方向づけが見えたのです。
その場で出会った皆さんは、まさに「人生の先輩」で、「ああ、こう生きていったらいいんだな」と、たえず前を照らしていただきあとをついて行く道案内人のような関係になるわけですが、そのつながりが続いているのも、小山修三さんのおかげです。
同展は広報も市民が独自に行うことになり、当時台頭していたブログを始めることになりました。その場は公式サイトよりはるかに闊達に、自由な「地域情報のおもちゃ箱」となり、雑談から講演録まで、以後17年継続して3,236記事を数えるに至りました。
この「アラウンド・藤白台」も、そのブログを土台に成り立っています。2006年から、ニュータウン関係を中心に僕だけが書くブログとして分離し、こちらは1,832記事を数えて僕の発信のホームとなりました。
2012年に吹田市が南千里駅前に開設した「千里ニュータウン情報館」を支えるため、2014年に前身がスタートし、2021年に法人化した「千里パブリックデザイン」も、「すいはく」での経験と問題意識から立ち上げたものです。町が生きていくためには、ハコを作るだけではダメで、そこにソフトが入り込まなくては生きたものになっていかないという考えでした。
どんどん自分の中で「ニュータウン」の占める比重が高くなり、その始まりには、小山修三さんからハッパをかけていただいたことが、いつもありました。人生を変える出会いって、ほんとにあるんだな。
この数年はコロナ禍もありお会いする機会も減っていましたが、いよいよこれからは、道案内人を自分でする番が本格的に回ってきました。小山さんは83歳でおなくなりになりましたが、17年前に出会った時は66歳だったことになります。ああ、自分はもう63歳なのに、なんと未熟で頼りないのだろう。こんなこと言ってる場合じゃないな。
「明るく行きましょう!」「その場限りの誠心誠意を尽くせばいいんだよ」という声が聞こえてきます。悲しみを上回って、出会いへの感謝が静かに満ちてくるようです。毒舌だったけれど、的確で、明るい人でした。若い頃留学していたカリフォルニア仕込みのアメカジ風の着こなしが、よくお似合いでした。追いかける背中のイメージは、消えることがありません。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。