藤白台の歴史を物語る貴重な写真をご紹介しましょう!こちらの文字をクリックして、写真を拡大してお楽しみください。この写真は藤白台の公社にお住まいの永井俊雄さん(元・新聞社のカメラマン…つまりプロ!)によるものです。永井さんは45年以上の間、仕事の合間に藤白台の記録を撮りためてこられました。今も藤白台や北千里でのイベントでご活躍です。さすがプロ!時代的に貴重なだけでなく、写真としての品質もすばらしいものです。前からこのブログでご紹介したいと願っていたのですが、このたびご本人の了解をいただきましたので、【蔵出し】シリーズとして…ある方にはなつかしい!ある方にはビックリ!の藤白台の姿を紹介していきたいと思います。(そういう経緯ですのでくれぐれも無断使用はおやめください。)
さて最初は、現在建替真っ最中の藤白台公社(千里丘陵G団地+藤白台B団地)の全貌を、青山台のC74棟の上から撮ったアングルです。写っている内容から推察して、1968年頃と思われます。
…いかがでしょうか?なつかしい?ビックリ?今とどこが違うでしょうか?斜面の上のほうには若き「しろすべ」のうるわしいお姿も見えていますね!樹が小さかったから、このように遠くからでも「しろすべ」は見えたのです。
この写真は、1967年の写真では建設中のC74棟から撮っているので1968年以降ではないかと推定でき、1970年の万博の臨時列車増発に備えて延長された阪急の引込線がないためにそれ以前と断定でき、右上の丘の向こうの万博会場もまだ見えない様子なので、1968-70年の間で早いうち…と絞り込んでいくと、1968年ではないかと推定できるわけです。
そのほか、今と違うポイントは数日後にここに追記しますが、皆さんもお気づきの点があればこの記事のコメント欄に書いていただけるとうれしいです。
(3/1追記・今と違うポイント)
公社団地が建替中なのは別として…
○藤白台の向こう右手、万博会場がまだ出現していない。
○その左手の阪大キャンパスも見えない!(工学部から移転は始まっていたがこのアングルでは見えない。)
○藤白台は全体に木が小さい!(団地の間から小学校も見える。)
○現・三色彩道の街路樹がマッチ棒のようだ!右手(南側)のアメリカフウのほうが左手(北側)のトウカエデより小さい。(今は逆)
○公社内「ふれあいの道」の斜面が森でなくガレ場のようになっている。
○「しろすべ」に上っていく斜めの道がない。
○公社の団地は、坂の下のA19-A26棟(藤白台B団地)のみ、住棟の妻面にタテのラインが入っている。
○山田川に張り出している自転車置き場がない。
○北千里駅前の交差点はスクランブルでなく、歩行者用の信号もない。
○阪急の高架が駅のところで切れている。(ホーム屋根がコの字型につながっている)
○角の阪急ハウジングプラザや立体駐車場がない。(駐車場はこんなもので足りていたのか…)
●公社再生地「しろすべ」(ゾウのすべり台)保存のためのコメントは引き続き募集中!→そちらのコメントはこちらにお願いいたします。
コメント
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コメント (22)
良い写真ですね~
街並がとても美しく見えます。
この当時に街路樹は植えられていたんですね。
細かいことはぜんぜん憶えていないなあ…
駅側の道路も少し広いのかな?
この写真の右方向もみてみたいなあ。
今じゃ吹田を代表する並木道になっている三色彩道の街路樹が、実に頼りないマッチ棒みたいなのが驚きです。道路の広さは今も同じなんですが、角に阪急不動産の建物ができたり線路が延長されてガードが架かったり、駅の右手の北センタービルの北側には立体駐車場ができたりして、狭苦しい感じになっていますね。路上の白線や規制のペイントが少ないことも、道が広く見える理由かもしれません。
北千里駅周辺の建物って、こんなに道から後退させて作ってあったのですね。この写真を見て、昔米国で住んでいたアパートを思い出しました。
その米国のアパート、1964年ごろ作られたそうで、建物の外観、交差点の作り方(特に円形にカーブした歩道の作り方、側道の設置とか良く似ています。
なんらかの影響があったのでしょうかね??奥居武さん、ぜひ外国のニュータウンも調べてみて下さいよ。
そうです、セットバックは千里ニュータウンらしさの重要な要件でした。今ではいろいろ建て込んでわかりにくくなってしまっていますが…。広い敷地があって建物は境界線からセットバックさせ、垣根をできるだけ作らず、空地は芝生でおおう…という景観の日本での具現化は、戦後の米軍ハウスだったと思います。米軍ハウスを見て、日本の都市計画者たちは一つの理想像を見たんじゃないでしょうか。こういった設計は住宅公団(UR)の団地の初期の設計に色濃く見られます。
一方で、団地の棟を南向きだけでなく囲むように配置する…という発想はヨーロッパから取っているのです。この写真でも角のA1棟だけが90度曲げて配置してあることがわかりますね。
欧米やアジアのニュータウンもぜひ行ってみたいのですが、こればっかりは週末に…というわけにもいかず、まだ海外は上海しか見ていません。千里の都市計画は戦前の満州からつながっているという話もあり、世界はどこまでもつながっていきます。こちらには私の仲間が行っている海外のニュータウンの話がいろいろ書いてあります。
http://senri.xii.jp/web/newtown-sketch/blog/category/%e6%b5%b7%e5%a4%96%e3%81%ae%e8%a1%97/page/3
あ~、懐かしい・・・。
うちが藤白台に引っ越してきたのが昭和41年9月。
そうそう、街路樹もこんなに小さかったんですよね。
そのせいか、太陽の光が反射して白い町という印象が残ってます。
ひとつ、残念なのは、我が家がちょうど切れてしまって見えないとこですか(^^;
永井さんの写真展とかあれば観に行きたいですね。
永井さんの写真、たくさんお預かりしてスキャンしたのですが、私がばたばたしていてなかなかアップできません。白い町…そうですねえ、そうでした。梅田から電車に乗って千里山の急坂の竹林を抜けるとパッと広がる白い未来都市!それは子供心にも衝撃的でした。今ではニュータウンの中のほうが緑が濃いような感じですね。
丁度このころに、藤白台に越してきました。
長屋のようなところから引っ越してきた両親に
引っ越してきた時の感想を聞いてみると
「外国の街みたいで驚いたー」と言ってました。
40年以上前ですから、両親も若くて
チョー興奮してたことと思います。
「外国みたい」ということも、初期の千里ではよく言われましたねー。かしましの照枝さんはニュータウンに見学に来て、ご主人に「なんやおまえ、アメリカに土地買うつもりか!」と叱られた…というのはNHKの番組で言っていた話。ニュータウンの前は長屋みたいな…というかまさに長屋に住んでいた人も多かったです。ぼくの叔父は四世帯一つ屋根の下で暮らしてましたから。団地生活を「ホテルみたいだった」と思ったという話も、どこかで聞いたなあ。今風に言うとほんとに「チョー興奮!」だったんでしょうね。
戦後の米軍ハウスが原点の説は驚きました。それでは、このブログでも時々話題になるスターハウスはどうなんでしょう?私が米国で住んでいたアパートは実はスター型だったんです。
http://g.co/maps/4qt42
衛星写真で見てもらうとわかるようにスター型が三棟、ストリートビューでみると、千里でよくあるような直方体をたてて、窓以外の装飾の少ないシンプルな建物です。私にとっては、南千里のスターハウスを見るより、こちらの方が先でしたので、南千里のものを初めてみた時は、既視感でいっぱいでした。
ここの北側のタッカーマンレーン(道路の名前)の反対側にあるヨーロッパ風の建物は、私が住んでいた頃は無かったもので、まあこんなに沢山の装飾がある建物を横にたてるとは、とあきれています。(交差点でストリートビューにすると見れます)
やはり1960年代、世界的に流行したんでしょうか?
「アメリカのスターハウスに住んだことがある」なんて、団地マニアの前に出たらもう…それこそスター扱いされてしまうでしょう。いやしかしこれはデカイですね。しかも14階建!(たしか竹見台も…)僕が思うに都市計画レベルの建築は(少なくとも昔は)たずさわれる人が限られていたので、国を超えて参照しあったことがたくさんあったのではないでしょうか。かくして「どこか似ている町」が世界中に広がる…というわけです。ニュータウンは個別の文化というよりは「現代文明」だ!という思いがどんどん強くなりますね。行ってみたいなあ…アメリカやヨーロッパのニュータウン。
たしかにバカでかいです。でも一般に東海岸の建物、大きい物がおおいです。セントラルヒーティングだし、地震がないからかな?? ヨーロッパは一回の旅行しか経験がないのでよくわかりませんが、ドイツにはバウハウス系の建物がありますよね。
しかし、奥居武さん、言葉遊びやキャッチフレーズ作るの上手ですね。「ニュータウンは現代文明」ってのは納得します。電車/車の一般化/産業化/混雑/公害などがなければ、郊外へ街が膨張するのは無意味だし不可能ですから。よろしければまた、永井さんの写真を掲載してください。
東海岸は人口の集中度が高いしヨーロッパの影響が強いから、ビルも上に向かう…のではないでしょうか。西海岸は敷地を広く使って平べったいですよね。「ニュータウンは現代文明」というのは、ニュータウンそのものがあちこちに伝播する性格を持っている…ということですが、それを支える仕組みも現代文明の集大成と言えるのかもしれないです。私の本職は広告屋なのでキャッチフレーズつくるのはいわば本職ですが、これは職業的観点だけじゃなく本当にそう思えてきた。だってすごく離れた遠い町へ行っても、似たような町並みがあって似たような暮らしをしている人たちがいるんですから。自治会で問題になってることまでそっくりなんです!(少子化して小学校が統合され、その跡地利用をどうするか、とか…自治会とNPOの関係がヤヤコシー、とか…)もう人の話を聞いていても自分の話を聞かされているようで赤面してしまいます。
1964年生まれ 青山台に住んでいて ふじしろ幼稚園に通っていました。北千里小学校(当時は野原)の横の歩道から北千里駅の前を通り藤白台の坂を歩いて登り切ったところにある幼稚園が いつも遠く感じていたのを思い出します。
以前 何かで見た古い地図では駅名が『北千里山』『南千里山』と記載されていました。もちろん山田駅や万博用仮設駅も無かった時代です。
今でも同じルートを歩いて、ふじしろ幼稚園に通ってる親子を見かけることがあります。小さな子供には十分遠く感じる距離と坂道でしょう。阪急は1967年3月に北千里まで延長されるまでは、「南千里」は「新千里山」で、「千里線」は「千里山線」でした。延長と同時にこの2つは改称されましたが、「北千里」も工事中の仮称は「北千里山」で、この写真にも写っている交差点には「北千里山」というバス停がありました。北千里延長と同時に、2つの名前と1つの仮称から「山」が取れて、すごく新しい感じがしたものです。
私が佐竹台から藤白台に越してきた73年春には、府営の住棟に縦のラインはまだあったと記憶しています。いつ消したん?
毎日朝から晩まで、北千里駅の発車放送とブザー音が聞こえていたのを、今でもよく覚えています。
府営ではなく、公社のA19棟~A26棟のことですね(自治会で言うと藤白会の部分)。1985年ごろに塗り替えて、ツートーンでなくなって妻面タテのラインも消してしまってのっぺりした感じになってしまいました。だいたい20年目で塗り替えたということだろうと思います。北千里駅の放送は、夏なんかだと戸建のほうまで聞こえることもありました。
私は古江台に住んでましたが、青山台まで行って集団でこの前を通ってふじしろ幼稚園に通いました。
1968年からです。
通い始めた頃、C74棟はまだ建設中で小さなトラクタが建設中の建物のなかに見えました。
街路樹はほんとに小さかったですよね。
なつかしい写真をありがとう。
この写真に写っている団地、全部建て替わってしまいました。C74棟は化粧直しして健在です。古江台も建替が進んでいますね。
C74は是非残ってほしいですね。北千里のシンボルですから
C74は最近かなり手をかけて耐震改修されたので(外観も少し変わりましたが)大丈夫なんじゃないかと思います。あの優美さは最近のマンションにはないものですね。
1975年の秋、C74棟に住んでいた友達のお母さんが、西宮球場に日本シリーズ観戦に連れていってくれました。私がカープファンになったのはその時からです。あれから41年が過ぎ、また再び強くなったカープが優勝してくれました。これも何かの因縁を感じます・・・
そのころ僕は千里高校の生徒でしたが、広島出身の当然カープの熱烈なファンの先生がいて、なんとか自習にしようと皆で黒板いっぱいに「祝!カープ優勝!」とかなんとか書いて待ち受けてみたことがあります。先生は教室に入ってきて瞬間止まっていましたが、「その手は食わん」と消してしまいました。