1965年・藤白台小学校

きょうはタイムマシンで1965年にひとっとび!
じゃ~ん!41年前、開校したての藤白台小学校の航空写真です。体育館がありません。南側の校舎もありません。(写ってないけど)プールもありません。あるのは「工」の字型の第一期校舎だけ。玄関もひとつだけです。校舎は今はアイボリー一色になってしまいましたが、赤と白のかわいいツートーンに塗り分けられていました。
このほか周囲をよく見ると、手前の土手に何も木が植わっていないこと、トウカエデの街路樹がすごく小さいこと、背後の藤白公園がほぼマルハゲ状態なこと、府営住宅は増築されていないこと、阪急の線路はまだないどころか、築堤の土盛りも半分しかできてないことなどがわかります。
藤白台小学校。開校1965(昭和40)年4月1日。始業式の児童数は191名6クラス(つまり一学年一学級)。藤白台のまちびらきはその前の年、1964年だったので、一年近くは古江台小学校まで通っていたのですね。このあと1966年春までの一年間にどんどん団地ができて転校生が次々やってきて、1966年2月には児童数412名12クラスになったと書いてありますから、学年の途中でクラス分けをしたことになります。
僕が入学したのは1966年春。「7期生」になるのですが、1年から通った2回目の学年ということ。1期生から5期生までは「全員が転校生」だったのです。
今はこんなことになっているようです。児童数は1974年までに1422名まで急増して1994年には545名まで減り、その後上山田のマンションから通う児童が増えて今年春には931名まで再増加しているようです。191→412→1422→545→931。グラフに書いたら、藤白台の歴史がすごくわかりそうです。

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コメント

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  • コメント (9)

    • だいぶうるさいひと(ひこ)
    • 2006年 11月 29日

     別の記事に書きましたが、アラウンド・津雲台つくりへの道のりは大分遠いようです。 
     なにしろ「てつ」さんに振られてしまいましたからね。
     さてどうしよう、古い言葉で思案投げ首、
    いつになるか分からないが作り方を勉強するか。

    • 奥居武
    • 2006年 11月 30日

    ひこさん、メールが書けてデジカメが操作できれば、もう85%はできたようなものですよ。いや90%かな?「文章が書けない」若い人より、ずうっと近いところにおられると思います。「ひこさんと歩く千里南公園」なんていいと思うのですが。

    • 森野みなみ
    • 2006年 11月 30日

    私も東京オリンピックの年に引っ越してきたんですが、まだ小学校は開校していなかったんですね。私は高2、妹が中1のときで、たしか青山台中学の1期とか2期とか(…もはやあいまいもこ…) /2丁目だったんですが、当時は粘土質のイエローオーカー色の坂で、ひょろんとした頼りなげな並木が植えられ、雨の日はレインシューズがないとぬかるんでたいへんだった記憶があります。/バスで藤白台センター前から新千里(今の南千里)駅まで出て、阪急で南方→地下鉄で天王寺→徒歩で天王寺高校着という通学コースは、片道確か1時間40~50分かかったように思います。市内へ着くと「あんた、どっから来たん!?」状態のいでたち。/遠かったけれど、学校が終わっても部室でダラダラ、学校前のお好み焼き屋で運動部の子らに混じってお好み焼きを食べてだべって、帰りは地下鉄じゃ面白くないのでバスで大阪駅へ出たり、難波から梅田まで歩いたりと、長い道のりもノーテンキ丸出し高校生活をエンジョイしておりました。けっこうなんやかんや覚えているものですね。脳みその記憶中枢のキャパの奥深さ(最近はとんと…ですが)とこれまでの年月の長さに改めてびっくり。

    • 奥居武
    • 2006年 11月 30日

    「粘土質のイエローオーカー」…そのとおりでしたね。粘土のカタマリも水をつけてピカピカに磨くと一見宝石?のような光沢が出るので、せっせこ拾ってきては磨きました。レインシューズの話はその頃住んでた人は皆さんおっしゃいます。舗装が間に合ってなかったのですよね。南千里のその頃の駅名は「新千里山」でした。まさに千里山のそのまた奥という感じ。「藤白台センター前」のバス停も数年前に「ゆらら藤白台」と名前が変わりました。青山台中学校は1964年開校で当時の校区は古江台、藤白台、青山台でしたが、町の建設より早く開校してしまったためにろくに生徒がいなかった…という話です。

    • tsugio
    • 2006年 12月 01日

    奥居武 ブログ開設おめでとうございます!
    私は奥居武と同級生(7期生)です。
    藤白台小学校ですね~懐かしいですね~。私は6年間通いました。
    確か、2年生の時に南側にホール(?)のある平屋の校舎が出来たと思います。そのホールで映画鑑賞会や人形劇を観ましたよ。
    校歌ができたのは確か、小学校5年生の頃だと思います。二つ年上の兄に新しく出来た校歌を歌ってあげたら「何で♪あ~あ~輝ける藤白~台♪で終わるんや~!普通、♪~小学校♪で終わるやろ~?俺が通っている中学校は♪我等、我等の青山台中学校♪やで。」と会話した記憶がありますので二つ年上の兄(5期生)が藤白台小学校に通っている時は校歌はまだなかったと思われるます。やはり5年生か6年生の頃に出来たんだと思いますが記憶違いかな?
    小学校の頃の名札は7期生はブルー、8期生はオレンジ、6期生は赤だったのではないでしょうか?これは少し怪しい...(^_^;)
    この名札デザイン-校章の「藤白」の下「フ」のようなデザインはやはり藤白の「フ」?ですかね~ (@_@)

    • 奥居武
    • 2006年 12月 02日

    tsugioくん、僕らの在学中(1966-72)の間はどんどん児童数が増えて、毎年のように増築してましたね。校庭は狭くなる一方でした。校歌ができたのは本文の「こんなこと」からリンクしている藤小のHPに「昭和45.2.25校歌制定」とありますから、僕らが4年生の最後ですね。名札の色は6種類あって、6年で一巡するようになってました!今はどうなってるのかな?校章は藤白台の「フ」をかたどってると僕も思ってますが、子供が笑ってるようにも見えますよね~。

    • pigmon
    • 2006年 12月 06日

    tuguoさん;藤白台小学校の校歌も、「小学校」で終わらないんですね。同類を発見して、うれしいです。実は、高野台小学校の校歌の最後もそうなんです。♪あ~、高野台、われらが学舎(まなびや)♪ 作詞者は町の名前や建物に気をとられていたんでしょう。

    • 健ちゃん
    • 2008年 3月 26日

    久々にアルバムを見ていたら、2歳位のよちよち歩きの私が藤白小の中を散歩している写真があるのを見つけました。おそらく航空写真と同時期のものと思います。昔は黙って入校しても何も言われなかったのでしょうね。
    私の住んでいたB13棟もしっかり写っていて思わず見入ってしまいました。

    • 奥居武
    • 2008年 3月 29日

    小学校の門は、いつも開けっ放しだったような気がします。この航空写真にたくさん写っている府営住宅B棟群も、10年後にはすっかり新しく建て替わっているでしょう。初期団地の老朽化はかなり進んでいますので、建替計画が順調に進むことが、今住んでいる人たちには望まれていることですが、そこにはもちろん感傷もあり、一言ではなんとも言えません。小学校の校舎に関しては、まだ直して使う方針のようです。

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