もうひとつの森
- 2007/3/20
- 万博
- まちあるき
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藤白台のすぐとなり、千里万博公園はいま、広大な森に…。
千里ニュータウンではごく一部にしろ開発前の緑地を残したのに対し、大阪の万博会場はほぼ全面的にズンベラボンに造成してしまいました。ここが35年後の愛知万博との大きな違いであり、だからいま広大に広がる千里万博公園の「森」は、約30年かけて再構成した「人工の森」ということになります。日本でも最大級なんじゃないでしょうか?
お祭り広場の大屋根も外された太陽の塔の横顔は、森の大屋根をしたがえているかのようです。
コメント
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コメント (6)
「太陽の塔」はいいですよねー。子供の頃から当たり前にあそこにあったけど、出先から帰ってきた時、名神吹田出口を出て右手に見えて来ると「帰ってきたー。」と感じます。
先日「水曜の朝、午前三時」という文庫本を買いました。主人公は大阪万博でホステスをしていた人で、読んでみると「あ、これは南千里のことだな。」とか「主人公は、万国博西口駅から通ったのね。」とか当時の様子がわかる描写がありました。
ラブストーリーなので好き・嫌いはあるかと思いますが、1970年の千里の様子が垣間見えて興味深かったです。
みゅらさん、1/13のブログもご覧ください。この場所にあった阪急百貨店の女子寮(万博後に転用されたらしい…)が舞台でした。僕も読みました。なかなかいい話でしたね。
太陽の塔はいつも「フレーフレー」をしてくれてるような気がします。こちらも面白いですよ。
http://www.doblog.com/weblog/myblog/60028/2623160#2623160
「水曜の朝、午前三時」既出だったとは失礼しました。
南千里駅前もすっかり変わってしましまいましたね。そういえば阪急百貨店の従業員さんの寮がありました!あそこが万博のホステスさんの寮だったのですね。
今思い出しましたが、新千里東町の体育館の前あたりの団地は、かって万博のパビリオンに働く外国人用に建てたれたものでお風呂の設備が洋風(?)だと聞いたことがあります。
当時は小さすぎて万博のお祭り騒ぎを実感できなかったのが、ちょっと残念。
「アーカイブ北千里」きっと懐かしい写真ばっかりでしょうねー時間みつけて見に行きたいと思ってます。
はい、千里NTと万博は別々の独立したプロジェクトでしたが、時期的に重なっていたため、NT計画には万博計画があちこちで影響しています。集合住宅のある一角が、万博の従業員用としてまず半年間使われ(東町、竹見台など)、万博終了後に一般の住宅や寮として転用されました。「アーカイブ北千里」はすごく面白いですから、ぜひ来てくださいね!
万博が終わったころ日本は高度経済成長のまっただなかを走っていました。
そんなとき、万博跡地に工場や団地を持ってくる考えはゴマンとあったと思われますが、誰が「跡地は森にしろ」って言ったのでしょう?
こたえはやがて博物館ブログでカンチョーが書いて下さる予定です。
そしてこんにち、国鉄から降って沸いてくる「吹操跡地をどうしよう」という騒ぎの中、チミモウリョウが啓蟄状態。
すいた市民環境会議ってとこがおもしろい提言をしてます。
http://www3.big.or.jp/~sskk/suisoato.htm
町の中に大きな森があることは、防災上の観点からも重要なことですね。扇町公園も戦災復興の際に東梅田から扇町まで全部緑地にする構想があったそうですが、戦後の混乱に負けてしまって当初計画の東側1/3だけになってしまったそうです。