(彩都レポート中でしたが)数日間書いてきた震災関連の記事も、今回でおしまいにしましょう。
今年の1月17日は快晴でした。チリチリと体を刺激するような晴れた冬の朝には、1995年の1月17日を思い出します。あのとき私は芦屋の山手の古いマンションの8階にいて、建物は一部損壊ですみましたが、室内の家具類はすべてが吹き飛び、転倒しました。それは衣類がはみ出た洗濯機に入れられて撹拌されたような激しい振動でした。何もできませんでした。ケガ一つしなかったのが不思議なぐらいです。
ガスの臭いの中で窓を開け放ち、すぐさま千里の家に安否の確認を取り(直後だけ電話が通じました)、大阪はどうやら全然様子が違うらしいことを知ったあと、近所の会社の同僚の家に行って無事を確かめ、帰ってきてのろのろと室内の片づけを始めたのでした。余震でドアが開かなくなるといけないので、真冬にドアも窓も開けっ放しです。(それで寒いと震災の日を思い出すのでしょう。)
同僚の家に行く途中、鉄筋の5階建てアパートがヨウカンを倒したように傾いていたり町の惨状を目撃したのに、瞬間で感覚が麻痺してしまったとでも言うのでしょうか、頭はやけに醒めていました。窓からはよく晴れた芦屋の町が見え、あちこちから煙が上がっているのが見えました。(報道でしか震災を知らない方へ:テレビで繰り返し映されたのは「一番燃えている場所」で、関東大震災のように町じゅうが大火になったわけでは決してありません。一番多かった死因は焼死ではなく圧死でした。嫌な話ですが報道が「絵になる」画面をとりわけ多く映したことは否定できません。)
それはひどくぼんやりした印象でした。ああ…こんなにあちこち同時に火事が起きたらとても消防は消しに行けないなあ…でもここまで迫ってきそうな火事はないなあ…。ラジオは○○町の誰かが棚から落ちてきた飾り皿で頭を打ったとか、けが人が数百名だとか、そんなことを言っていましたが、何を言っているのか?という感じでした。そんなことですむわけがないだろう。しかし自分は、ガラスの破片と陶器の破片は同じ袋で処分していいのだっけ?…そんなことばかり気になるのです。晩までに千里へ帰らなくては。そのことばかり考えていました。
それから13年。家具が倒れてくる場所で寝ないこと、寝る前に水を汲んでおくことだけは堅く守っていますが(特に、家具が倒れる場所で寝ないことだけは、絶対最低限皆さんに守って欲しいことです。建物が崩れなくても家具の下敷きになった方が大勢います。)あの貴重な経験を自分ははたして生かしているのか?
やはり強く感じたことは「遠くの親戚より近くの他人」と言うように、いざとなったら「近くの他人」がどれだけ大切か、ということです。いま(特に関西で)まちづくりや自治会などに関わっている人の多くが、あの日から「いざとなったら近隣でしか助け合えない」と危機感を抱いて活動に身が入っていった…ということをおっしゃいます。
一生に大災害に遭うのは一度とは限らない(もう遭いたくないですが…)。次の災害は前回の災害と違う角度から来るかもしれない。同じ震災でも関東と阪神では、被災のパターンは時代や発生時刻を強く反映してかなり違います。いま自分が生きているのはまったく偶然の幸運でしかないのですから、せめて次回に死なないようにすることが、亡くなった方への誠意というものではないだろうかと思います。

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