阪大(豊中キャンパス)の大阪大学総合学術博物館で行われていた「なんやこりゃ-大阪万博の記憶とアート」展に行ってきました。残念ながらコロナ禍のため8月1日が最終日。中の展示は撮れなかったので建物の外観で…。

興味深かったのは、北大阪の開発における阪大・万博・ニュータウン三者の関係。順番から言うとまず千里ニュータウンの開発が決定し、マスタープランを固めているうちに大阪大学の吹田移転計画が進み、追いかけるように70年万博の千里丘陵開催が決定した(万博会場の建設は阪大の移転を追い越した)…それがわずか5年間ほどの間に進行した…ということになります。

千里ニュータウンの設計に関わられたK先生に以前伺ったところでは、ニュータウンのマスタープランがほぼ固まった段階で、まず金蘭会が千里進出を打診してきた。これは苦心して「緑の中の学園」というコンセプトで北公園の中にはめこんだが、それが落ち着くと、今度は阪大が巨大なキャンパスを建設したいと言い出した。この段階になるとニュータウンの設計を根本的にもさわれず、ニュータウンの外側に張り付いたような配置にならざるを得なかった。もう少し早く阪大が意思表明していたら、ニュータウンと一体的な都市設計にできたのに…という話。藤白台住民としては、たしかにこの「あとから張り付けた感」は、実感としてわかります。

しかし変化の波はそこで止まらず、阪大が吹田移転を決めた1年後には、70年万博の千里丘陵開催が決定した。このために阪大の用地計画は万博のプランと干渉することになった。紆余曲折を経て、吹田キャンパスは北半分(第1地区)をまず万博予定地の北隣に開発し、万博終了後に万博駐車場の一部をキャンパスの南半分に転用する約束で決着した。その経過が確認できました。今の歯学部、薬学部、人間科学部、本部などの場所が、万博駐車場だった「南半分(第2地区)」にあたります。

展示史料ではこのほか、阪急も北大阪で用地買収を進めていて、まとまったキャンパス用地を確保するのに苦労した…ということが書いてありました。

また、上本町にあった旧大阪外大が、万博跡地に移転を希望していた…という話も出ていました。これは実現しませんでしたが、外大は箕面粟生にキャンパス用地を確保し、1979年に移転してくることになります。

いかに千里丘陵がホットな場所であったか…というエピソードです。モテモテやん!このような背景があって、「京阪神千」とか「グレーター千里」という言葉につながっていくのですね。都市計画の先生によれば、「それは偶然であるはずがない。あきらかに北大阪を発展させる、という政治的意志が働いている」。千里は「約束された土地」であったわけです。

今や堂々たる大阪大学ですが、大阪帝国大学になったのは昭和になってからで、1931年。そこから新制大阪大学の発足(1947年)までわずか16年。吹田キャンパスへの移転が始まるまで、そこから約20年。吹田キャンパスへの移転は約25年もかかり、1993年の医学部附属病院移転から、今年で27年。医学部附属病院では現病棟に隣接して新病棟の建設が間もなく始まります。落ち着いている暇などなく、たえず動いてきたことがわかります。

そして来年春からは、箕面キャンパス(旧外大の流れをくむ外国語学部)が箕面粟生から箕面船場に移転します。阪大は、豊中・箕面・吹田の3キャンパスとも、千里丘陵を囲むように並ぶことになりますね。知的拠点がしっかりインストールされていることは、地域の将来性にとって欠かせない条件です。

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