いよいよきょう、閉店になってしまう「ピーコック千里中央店」と、その建物全体である「オトカリテ」。地下で北急千里中央駅と結んでいるこの左右の店舗も「オトカリテ」の一部で、閉店になるようです。近年はいつも閑散としていた2階の歩道橋アプローチと異なり、この地下の通路は駅直結で人通りがありましたから、閉館後に一番寂しく感じるのはこの部分かもしれません。※(通路自体はバスやタクシーのおりばから駅への接続にも使われているし、公道の地下にあたるので閉鎖はされないと思います。)
千里中央の商業施設の配置は、中心を南北に貫く専門店街「せんちゅうパル」と、東西に千里阪急からピーコックまでを貫く地下通路で十字型の骨格になっていて、機能的に結ばれています(今の感覚から言うとバリアフリーがダメダメですが…)。地下通路の1階部分は交通広場になっていて、歩車分離が図られています。
ところが設計当時、商業の立場から言えば、この約50mの地下通路で核店舗が専門店街から離れているのが不安がられたようです。どうせ造るならば、専門店街や駅と密着しているほうが客が確実に呼び込めるのではないか?交通広場は全体の一番外に配置すればよいのではないか?当時、大阪府企業局におつとめだった山地英雄さんの著書『新しきふるさと』(1982)に書かれていますが、商業者が建物の配置にまで意見したというのは「新しい町」ならではの熱気を感じるエピソードです。しかし結局、大阪府が交通利用者の利便を優先して、核店舗は東西両翼に押し出して配置し、地下通路の左右の店舗経営も任せる形で落ち着いたとのこと。…そういう経緯で、この地下通路部分は、オトカリテ(ピーコック)や阪急とセットで運営されているんですね。
この通路が※左右が閉まってしまったら、通路は通れても寂しく感じるだろうなあ…再開発は相当の時間がかかるだろうから、どうにかならないものでしょうか?
※お詫びと訂正…オトカリテ閉館後は、この地下通路部分も閉鎖されて通れなくなるとのことです。駅とこの通路の間にはシャッターがついているので、それで遮断するのでしょう。バスやタクシーのおりばからは、2階の歩道橋に上ることで東西へのアクセスは確保されてはいます。しかし北急に乗る人には、いったん2階に上がって、せんちゅうパルの部分で地下まで下りることになり、大変不便になりますね。どうにかならないものか…?
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
こんにちは。ピーコックは90年代によく家族での買い物で連れてきてもらいました。日用品売り場には往年の雰囲気が残っていて時々、食器、鍋、下着などを買っていました。特に下着売り場はグンゼ製品がセールになっている貴重な売り場でした。
さて、ピーコックについて昔から1つの疑問があります。
2階の歩道橋アプローチからピーコックの店内に入るとスロープと階段で1段下がる構造になっています。これはピーコックの2Fが歩道橋よりも低いからですが、歩道橋とピーコック2Fの高さが違う理由はあるのでしょうか?
仮説1,ピーコック側が高さを間違えた。
2、サンタウンの高さに合わせざるを得なかった。
3、もともと歩道橋から店内への入り口をつけるつもりがなかった。
何かワケがありそうなのですが、ご存じないでしょうか?
店に入っていきなり段差!という、今では考えられない設計ですね。スロープはあるけれどかなりの急勾配です。(阪急のほうはたしかそんな段差はなかったと思いますが…)以下は私のあくまでも推理ですが…。歩道橋の高さは、下をバスなどが通るのに必要な高さから決まってきます。せんちゅうパルも南北で道路が貫通していますから、同じ高さが必要です。するとなぜピーコック側だけ1階の高さを切り下げたのか?ということになりますが、ピーコックはスーパーなので、1階に百貨店ほど「格の高さ」を印象付ける天井高は不要だと考えたのか、天井が高いとエスカレーターも長くなり左右幅を取りますから南北向きについているエスカレーターが何かに支障したり売場面積を食うのを避けたのではないか?そんなところではないかと思います。千中の中は平坦に見えてけっこうスロープがついていますから「気がつかない高低差」が影響しているかもしれません。阪急のほうがどうなっていたか、確認してきます!
千里阪急の2階入口を確認してきました。こちらは歩道橋から段差なしの完全ツライチになっていました。つまり旧ピーコックの2階フロアだけが全体から下がっているということです(1階の天井が低い)。天井は高いほど開放感があって快適に思われますが、光熱費がかかったり、建物全体の嵩が増すと日影の問題も出てきたり、建物の材料費もつくわけですから、なんらかの「節約志向」が働いたのではないでしょうか。(エスカレーターとの関係が一番クサイと思っています。)いずれにしても「今ならやらない設計」だと思いますが、そういうことも含めて「53年たった」ということなのでしょうね。
奥居様
おはようございます。早速の現地調査、恐縮です。
>そういうことも含めて「53年たった」ということなのでしょうね。
バリアフリーが一般的になったのはここ30年程でしょうか。思い返せばそれまでは段差が多くあったように思います。むしろ段差がデザインの一部のような印象も受けます。
豊中駅前にあった新開地デパートの2階入り口にも高低差がありましたし、今の価値観でみると違和感があることでも当時はそれが当たり前だった一例に過ぎないのかもしれませんね。
ニュータウンを造った頃は「バリアフリー」という概念はなくて、交通事故死者は今より多かったので「歩車分離」だけは必死にやった結果、千里中央は階段だらけの街区になってしまいました。
https://ara-fuji.com/2009/01/14/2972/
「スキップフロア」といって、街区のつなぎ目を半階分ずつずらしたような設計すら取り入れられました。「なんでそんな設計?」と今なら思いますが、下の階から上の階がチラ見えすることで、空間がつながり、上層階に自然に人の流れができる…という考え方もあったのです。しかしピーコックの2階入口はそのような思想もなさそうで、もうちょっと考えてほしかったと思いますね。「なぜここにわざと段差を造る?」という設計は、他のビルにもたくさん見られます。
山地英雄さん。元大阪府企業局技監、千里ニュータウンの父と呼ばれ、我が社に語り継がれている方です。
もちろん直接は存じ上げませんが、実は息子さんも府庁職員で、私はその人の下に仕えたことがありました。
最後は、お父さんと同じく部長級まで務められたお偉いさんです。今も、豊中八中前周辺に住まわれていいますので、千里ニュータウンの歴史やエピソードを知りたかったら、お話を伺うのもよいかもしれません。
山地英雄さんのお話は、(もう10年近く前だったか?)千里中央で皆で伺ったことがありました。ニュータウンの本を2回まとめられていますね。息子さんも府庁勤めだったのですね。70代ぐらいになられているでしょうか。