時代の現場(ピーコック千里中央店閉店によせて)

あす4月30日限りで、1970年以来親しまれてきたピーコックストア千里中央店が閉店になります。(※店名は何度かマイナーチェンジしています。開業当時の店名は「大丸ピーコック」でした。)現在、ピーコックストア千里中央店は地下を使っているだけで、この建物全体は「オトカリテ」という名前になっていますが、「オトカリテ」全体が閉館になります。

1970年春の千里中央オープン当時からあった「元祖千中三羽烏」…ピーコック、せんちゅうパル(当時は千里サンタウン)、千里阪急の一角がついに欠けるというのは寂しいことですが、このピーコックが記憶にとどめられるのは、なんといっても、1973年10月末~11月頭、全国に波及した「トイレットペーパー買いだめ騒ぎ」の発祥の地とされていることによってでしょう。トイレットペーパーの特売に並ぶ人の行列が、今は静かなこの歩道橋の上にずらりと並んだのです。あるスーパー1店舗の去就が、つねに「社会的事件」と関連して語られるというのは、かなり特殊なことだと思います。今回、産経新聞NHKも、その文脈で記事を書いています(NHKには私のコメントが出ています)。

当時のことを調べると、中東戦争による石油危機不安が騒動の前から世間に広がっていて、実態としては「買いだめ騒ぎ」は同時多発的にいろいろな場所で起きていたようです(最も派手に「現象化」したのは千里だったようですが…)。それにしてもなぜ「千里中央が発祥」という説が定説になったのか…?

第一には、当時千里ニュータウンは「全戸が水洗である」全国でも珍しい町だったことがああります。どの大規模団地よりも規模が大きく、泉北、高蔵寺、多摩など後続のニュータウンは、まだ入居が完了していませんでした。しかも千里ニュータウンでは8割以上が集合住宅。詰まらせると上にも下にも迷惑がかかります。水洗の集合住宅に、トイレットペーパーは絶対必要なものでした。

第二は、1973年は、千里ニュータウンが最もアクティブな時期だったという要素です。千里ニュータウンの人口が過去最多を記録したのは、この2年後の1975年。大人2人、子供2人のいわゆる「標準世帯」が多くを占め、いわば「うんこざかり」で、しかも親たちもまだ若かった。当時の千里ニュータウンの高齢化率は、わずか3%前後でした。騒ぎに走り回る元気がありました。

第三は、千里ニュータウンという町のメディアとの親和性です。日本の全人口の半分の人が来ちゃった70年万博からは3年しかたっていず、千里ニュータウンは「時代のアイドル」のように有名になっていました。すごい未来都市だ!と。しかも千里は(今でもそうですが)大阪都心だけでなく新大阪や大阪空港にも近いため、遠くへ行く仕事が多いメディア関係の人が多く住んでいました(芸能人が多いと言われるのも同じ理由によるものでしょう)。つまり、町の中にメディアの目があった。千里は「報道されやすい」町だったのです。千里という地域の価値をメディアが評価していたことは、今でも千里中央に「朝日」や「読売」のビルが多いことに伺えますし、もう撤退してしまいましたが、千里丘にはMBSもありました。

「トイレットペーパー騒動」は、決して千里の住民だけが軽挙妄動に浮かれやすかったからではないというのが、千里育ちである私からの弁護です。

2020年、コロナ禍の中で再び「トイレットペーパー騒動」が…今度は世界で起きてしまいました。人は歴史に学んでいないというか…世界が千里のようになってしまったというか…「反省期のない半世紀」というダジャレで締める私は、やっぱり反省してないな。

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  1. 2023年 4月 30日

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