なつかしいでしょう…(ふじしろ幼稚園・2001年)
- 2011/5/21
- 藤白台
- まちあるき, まちの記憶, 定点観測
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このブログ、タイトルのわりにだんだん藤白台の写真が減ってるじゃないか!…という地元読者の熱烈なお叱りの声にお応えして(と勝手に想像しているだけなんですが…)、今や貴重な景色になったシーンをお届けします。
ふじしろ幼稚園。の正門。この写真は2001年に撮ったもの。ふじしろ幼稚園は昨年(2010年)から今年(2011年)春にかけておもな園舎が建て替えられたため、この景色も過去のものになりました。
藤白台の子供なら誰もが通った…と言いたいところですが、僕は実はここを出ていません。1964年の秋に越してきたとき、ふじしろ幼稚園はまだなかったからです。やむなく親は僕を一番近かった…高野台の玉川学園幼稚園に通わせたのでした。一番近いのが…高野台?そうです、開発途上のニュータウンでは当時、北地区には幼稚園はひとつもありませんでした。園のスクールバスで、毎日藤白台から高野台まで通っていました。まだ道路がちゃんとできてない、町じゅう工事現場だったニュータウンの中を土煙を上げながら…あれは幌馬車だったな。
ふじしろ幼稚園が開園したのは1965年春。そのタイミングで僕は年少から年長組に上がったのですが、(尼崎からニュータウンに越してきたとき一度転園しているので)もう一度転園してふじしろに一年通うか(A案)、最後まで玉川に通うか(B案)、母親は幼い僕に選択を迫りました。A案なら幼稚園を二度転園することになるけど、藤白台小学校に上がったときには藤白台の友達ができている。B案なら転園は一度ですむけれど、藤白台小学校に上がったときはほとんど知らない子ばっかり…どうするか、自分で決めなさいと。
そんな選択を幼稚園児に決めさせる母親ってどうなのよ?と思いますが、転園は子供にはけっこうつらい経験で、玉川にもなじめていたとは言えなかったのですが「またか…」という思いもあり、さんざん悩んで「…最後まで玉川に行く…」と自分で決めたのでした。思えば人生最初の選択だったかも?
…というわけで「行かなかったふじしろ幼稚園」が、僕のふじしろ幼稚園に関する思い出なのですが、1965年にできた園舎も古くなって耐震面の問題があり、45年ぶりに建て替えた…というわけです。長い間、おつかれさまでした!(僕行ってないけど…)
さて、建て替えた園舎はどうなったのでしょう?
コメント
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コメント (4)
ご無沙汰しております。
昨年末に建替えを機に藤白台を涙、涙で離れました。
それでも北摂からは離れがたて、南に数駅はなれただけなんですけど(^・^)
ふじしろ幼稚園に通ってましたよー。
転入生だったので、1年とちょいでしたけど。
ダンディな園長先生の時代で、今に比べると施設も少なくて(運動場の部分には建物はひとつもなかったです。)、
今ではあたりまえの親の送り迎えもなく
のんびりとした時代でした。
(横断歩道にはおじさん?おばさん?が立ってくれてたような記憶が??)
鼓笛隊に力を入れてる幼稚園で(今はどうかわかりませんが)、大阪万博のお祭ひろばでのイベントのひとつとして弟が太鼓を叩いたような。(なんせ40年以上前のことでして・・・記憶が!)
今はどうなってるかわかりませんが、運動会の時は場所取りが早朝から激しかったらしいです。(門はどうなっていたのか??これも謎ですが、40年前は警備とかそう言うことものんびりしてたのかもしれません。)
藤白台の住人ではなくなりましたが、
なつかしさ100%な話が満載なここ。
また寄らせていただきます。
みゅらさん、おひさしぶりです!そうですか、建替で…でも「藤白台OB」の輪が広がって、新しい人も来るから「拡大藤白台」が広がっていると思うことにしましょう!華僑みたいなもんかな?昔は幼稚園でも親の送り迎えはなかったんですよね。僕も千里ではスクールバスだったけれど、千里に来る前はどうだったかなあ?ダンディな園長先生は今は銅像になっておられます(写真に横向きに写ってる胸像)。きれいになって喜んでおられるでしょう。千里広域のこともとりあげていきたいので、これからもどうぞお寄りください。
へー私が通ってた時の前はこんなんだったんですねーまあ今は小3ですあー思い出したらなつかしー 先生見てますかーみつきニックネームみったんだよ^3^
小3ですか!もう寝ないと!