千里ニュータウンはベルリンか?(壁崩壊20年)
- 2009/11/11
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- まちの記憶, 旅行記
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ベルリンの壁が崩壊してちょうど20年とのことで、特別記事。写真は2003年にベルリンを訪問した時の「ホンモノの壁」の跡です。
中央の人が踏んでいる線が壁の痕跡。正面に残された壁の切断面が見えています。歴史的な存在なのにご近所のブロック塀と変わらないほど薄く見えますが、この壁が2枚重ねになって間に無人地帯があり、そのゾーン全体が西ベルリンと東ベルリンを隔てていました。
…という話を千里ニュータウンと結びつけて考えたのは、一つの都市が2つの政治区域に分けられてだんだん個性が離れていく…という物語は、千里ニュータウンの吹田市豊中市問題と似ているような気がしたからです。
ベリルンの壁があったのは1961年から1989年まで。東西ドイツが分かれていたのは1945年から1990年までの45年間。その長さも千里ニュータウンの歴史を思わせます。僕がドイツに行った2003年時点で東西ドイツは統一から13年を経ていたわけですが、45年間違う政治体制下にあると、格差がなくなるのは45年以上かかるのだろうと思わせる光景が、数多くありました。ベルリンは2003年当時まだ中央駅がなく、空港も東西分割時代の小さなものしかありませんでした。旧西独側最大の都市ハンブルグとベルリンを結ぶ鉄道は、日本で言えば東海道線といえるような主要幹線だろうと思うのですが、単線の部分があって驚きました。
政治は、こわいです。人間の意識や暮らし方を、じわじわと変えてしまう。…千里ニュータウンの吹田市域と豊中市域の境界にはもちろん物理的な壁はありませんし、交通体系も一体化しています。しかし、元は一本の通りであった道路には吹田市と豊中市が違う名前の標識を立て、自治会などのシステムにも、両市は違う仕組みを採用しています。10年ほど前までは「吹田市」「豊中市」の地図とは別に「千里ニュータウン」の地図が市販されていましたが、それも廃版になってしまいました。
もちろん千里ニュータウンの吹田市域は東ベルリンではないので、2つの市域が違う発展をしてもイコール不幸な話ではないのですが、「千里ニュータウン」という一体のアイデンティティは、消えてほしくないと僕は思います。なぜなら千里ニュータウンは日本で最初の大規模ニュータウンで、その物語を埋没させてしまうことは「活力の維持」をいつも考えていないといけない人口減少時代に得策でないと思うからです。
コメント
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コメント (2)
へぇー、ニュータウンの地図があったんですか。みてみたいですね
はい、じゃあ近々ご紹介しましょう。