「千里モニュメント作品目録」から千里のパブリック・アートを見てきましたが、千里ニュータウン内に置かれた屋外アートはこれだけではありません。
1967年には千里南公園で「野外彫刻展」が開かれ、この時の出展作30点のうち、スポンサーがついた23点を、ニュータウン内の公園やロータリーなどに配置しています。具象も抽象もありますが、共通しているのはすべて白色セメントで造形されている点です。小野田セメントが後援についていました。
また1990年には豊中市の景観事業として、千里中央に近い西町の街路に、8点のブロンズ像が置かれています。
「個別に多く置かれている」のではなく、たびたび、シリーズでまとめて配置されているのです。
僕はずっとそれを見慣れてきたので「ニュータウンというものは、こういうものだ。新しい町では何か人工的に置かないと、単調になってしまうからな…」と思ってきましたが、あらためてその多さをおさらいしてみると、「ニュータウンは、そういうものだ」では済まない気がしてきました。他のニュータウンは、どうなのか?
ここで浮かび上がってきたのが「大阪府に、仕掛人がいた」という仮説です。その方が多くの資料を、吹田市に寄贈されています。Nさん。もともと山田の地主の家に育ち、千里ニュータウンに土地を売って大阪府千里センターに職を得られ、ご自分でも絵を描かれ、ニュータウンにアートを置いたり、世界のニュータウンをつなぐシンポジウムを企画されたり、数多くの文化事業を手がけられました。実はNさんは、私の絵の先生でした。
残念ながら数年前におなくなりになりましたが、2013年にお話しする機会があり、大量の資料を吹田市に残してくださいました。「千里モニュメント作品目録」はその中の一冊です。
N先生は、ご自分の家が手放した土地がただの造成地にならないように、心の入った「町」になるように、得意のアートの分野で「役人離れした」プロデューサーとして立ち回られたのではないか?府と、造形作家たちと、スポンサー企業を結んだ成果が、大量のアートとなって、今残されているのではないか…ということが、見えてきました。
なんということでしょう!小学3年の時からまさに「手を取って」絵を教えていただいた先生の大きな足跡に、還暦も過ぎてから気がついたのです。千里センターにお勤めだったことは知っていたし、町のパンフレットをいただいたりして、その影響で「ニュータウンオタク」になったようなものですが…。私は絵は上手くもありませんでしたが、デザインは好きになったし、広告会社に就職することになったのもN先生の影響は「大」です。親以外にもっとも影響を受けた方の一人でした。
写真は現在の千里南公園『日と風と雨に』です。まさに日と風と雨に打たれて年季が入りました。設置当時の写真と比べて、周りに植栽やりすぎです!ここまで木が育つことをイメージできなかったのでしょうね…。
生活に直接必要性を感じることが少なくても、「千里ニュータウンらしさ」を作っているパブリック・アート。大切にしたいです。
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2021年 2月 09日
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