4月30日に53年の幕を下ろしたピーコックストア千里中央店。閉店当日は2階の歩道橋上でも、名残を惜しんでたたずんだり、記念撮影する人たちなどが見られました。地下1階で行われた閉店セレモニーでは「1970年『ディスカウント・デパートメントストア』大丸ピーコックとして開店以来…」というアナウンスが何度かされました。『ディスカウント・デパートメントストア』?ディスカウントとデパートって、相いれないな。そんな用語あるんだろうか?と調べてみると、「格安品をそろえた百貨店」として1950年代のアメリカから広がった業態であるようです。
千里中央以前にも千里ニュータウンには津雲台近隣センターや北センターにピーコックはありましたが、この千里中央店は初めて「大丸ピーコック」という名前で「大丸」ブランドを冠して登場しました。店のマークも「大」の髭文字をあしらった大丸伝統のシンボルマークの下部に「P」の字が小さく加えられ、「百貨店ぽさ」が強調されていました。
しかしその内容は、1973年のトイレットペーパー騒動の引き金となったのが、この店の「トイレットペーパーの特売」であったことからもわかるように、やはりスーパーでした(当時は衣料品なども取り揃えたオールジャンルの品ぞろえでした)。新しい町・千里中央では、千里阪急が「郊外型のカジュアルな百貨店」、大丸ピーコックが「上質なスーパー」という、双方から歩み寄った新しい業態に(お互いにかぶらないように調整しながら)チャレンジしていました。
大丸ピーコックは2002年に「千里大丸プラザ」と名を変え、2013年に「オトカリテ」となりますが、一貫していたのは「スーパーと百貨店の中間を貫く」路線でした(千里大丸プラザに変わった時、父が「この店は、デパートでっか?スーパーでっか?」とミもフタもない質問を店員にしたところ、「スーパーです!」と力強く答えられたそうです…)。
…と、同店の歴史をふりかえって思うのは、千里中央(地区センター)はやはり、ずっと「日常の中のハレの場」であったということです。梅田ほどではない、しかし千中に行くときはお化粧をちゃんとしていく…と、とある主婦の方がその微妙な位置づけを表現していました。つまり、町自体が「イベント空間」としての雰囲気や仕掛けを持っていて、「何か楽しいことが起きる」ことを利用者は期待してきた。そのように考えると、有名な「トイレットペーパー騒動」も、「社会パニック」ではあったのかもしれないけれど、同時に「千中だからイベント的に注目された」という文脈に思いあたります。
これから始まる千中の再開発(再々開発かな?)。明るく親しめるハレの場として、よみがえってほしいと思います。53年の歴史は、歴史です。単なる機能面だけでなく、その「記憶」をリ・アレンジして生かすことが、町が連続性を持って愛され続けるキーになると思います。待ってるからね!
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。