他のニュータウンの訪問記がたまっているので次は成田ニュータウンをレポートする予定でしたが、2年前の南地区センタービルの記事にコメントを頂いたので予定変更…
1964年ごろ、当時からの住民の方が撮影した南地区センタービルです。やけに画面がさっぱりしていますが、街路樹が幼いだけでなく、通りを隔てて右の佐竹台メゾネットがまだなく、その向こうの公社住宅まで見通しがきいています。左手奥に1978年に増築された千里市民センター(公民館、図書館)の部分もありません(この文字をクリックすると大きく見られます)。
このセンタービルは1970年に千里中央がオープンするまで、千里ニュータウンの玄関口であり中枢の機能を担っていました。1967年に北千里ができるまでは、千里ニュータウン内の全てのバス路線は南千里(当時は「新千里山」)から出ていたので(青山台や北町行きの急行バスもありました)、ニュータウンから大阪市内に出る住民の誰もがこのビルの独特のファサードを朝な夕な目にしていたわけです。
中には住民の入居の受付や抽選を行っていた千里開発センター(→千里センター→タウン管理財団)があり、心ときめく町の完成予定ジオラマも置かれ、文化教室なども開かれ、大げさではなく未開の原野であった千里ニュータウンの中で、「ここを町にするぞ!」という決意が結晶した一角でした。
コメント
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コメント (31)
はじめまして。いつも楽しく拝見しています。
64年の南センターのビル。今と比べるとぜんぜんちがいますね~!図書館増築部分が建っていないばかりか、その向こうの阪急百貨店の建物もまだですよね。ところで余談ですがのちにこの裏に阪急オアシスが建ちますね。(今のGモールじゃないですよ)取り壊す前、よく買い物に行ったものです。駅から通路歩道をわたっていると旧3階の売り場が通路からちらっと見えており、あそこに行きたい、でも階段が無い。あそこは今どうなっているのだろう?とよく考えたものです(笑)。以上、余談でした。
南千里のオアシスは、最初は現在の「阪急クリエテ」の位置にあり(新千里山店)、その後、現在のマンションの位置に南センター店ができ(一時期両方ありましたが新千里山店はその後閉店)、再開発で現在の南千里店になったので、今は「3回目の場所」だということになります。千里ニュータウンに文化的なお店が何もなかった時代、ほんとうに「オアシス」でした。昔のマークは三角形にラクダとヤシの木のシルエットが抜かれた図柄でした。
子どもの私にとってその名の通り身近な「オアシス」でした。南千里のオアシスは記憶に無いのですが、朝日新聞主催の剣道教室に隔週日曜日に通っていました。センタービルで開いていたんですよね?
剣道習ってなかったので推定でしかないですが(笑)、竹刀を振り回せる部屋といえばセンタービルの大ホールだったのでは?体育館みたいな部屋でしたか?
そうだったと思います。舞台はあったかなぁ…?
何せ40年近く前のことなんで、記憶が引き出しの奥に突っ掛かって出て来ません。しかし、100人ちかくの子供とその保護者が日曜の午前中いたはずです。会場も北千里と南千里のセンタービルを交互に使用していたと思います(^_^;)
100人+αもいたのなら、南センタービルの大ホールで間違いないと思います(今もありますよ)。北千里は…北センタービルのパフォーマンスホールかなあ?竹刀を上げ下ろしするのには天井が高くないとダメなはずですが…?屋上?なら覚えてますよね。1980年以降なら北公園の体育館もできてましたが…?
北公園に体育館があるんですか……私は1976年までいたのでそれ以降に建築・改築された施設などは未見です。
北センターの屋上の記憶は思い出せません。
あぁ、時間作って藤白台に「帰省」したいです。
飛行機に乗ればすぐですよ~(本当に、あと数年すると公社A棟と府営B棟のあたりは相当印象が変わるでしょう…)。1976年ってことは、循環器病センターも未見ってことですね。(次の写真で、手前の台形の屋根が体育館)
http://senri-g1964.at.webry.info/200701/article_22.html
健ちゃんさん どもm(__)m
懐かしいですね 僕も アサヒの剣道教室には通ってました
今も 南千里のホールはありますよ かなり老朽化してますが(^_^;
剣道が終わったら 一階の レストラン「ビクトリア」で食事 ってのが嬉しかったなぁ
北千里の会場も行きましたね 2階の喫茶店 名前は忘れたけど「ジュースロイヤル」
って 金魚鉢みたいなのに入った パフェが好きでした
アサヒの剣道教室はそんなにメジャーだったのか!(爆)てつさん、問1.南千里一階のレストラン「ビクトリア」って、センタービルにあったのですか?それとも専門店街?問2.北千里の会場はどこだったのですか?
「ビクトリア」は センタービルの一階です 今は分割されていますが
現在の整骨院のあるところ 千里タイムズ社の北(裏)だと記憶しています
専門店街1階には「グリル ミキ」ってレストランがあり 20年ぐらい前は 当時の仕事の得意先で 毎週水曜行ってました
北千里の剣道会場 う~ん うろ覚えだけど 東の端の建物の3階ぐらいだったかと思います
アサヒ剣道教室は 結構盛んでした
でも みんな成長期で 買い取りの防具が
すぐ使えなくなり 続けられませんでした
試合もあり 確か 豊中のニュータウンの小学校の体育館で何度か大会がありましたよ
千里ニュータウン、1960年代の建設期の記録はいっぱい出てくるのですが、意外と1970-80年代の「安定期」の記録があまり出てきません。子供がたくさんいて、高齢化や老朽化もまだしていなくて、人口も最盛期で、いちばん町が活発に回っていた時期なのですが、そういうときって、案外写真に撮ったりしないものなんですよね。そんなときの「平凡な」思い出話もお待ちしていま~す。
千里センタービルの ビクトリアの上
2階には「マスヤ」って 手芸と模型の店があり
当時のプラモデル好きのこども達はいりびたってました
その向かい側に 70年代半ばでしょうか? 喫茶店が2件とはんこ屋(しかしなぜか 釣り道具や餌 ミミズ等も売ってました)が出来ました
その下には 蕎麦屋 たこ焼きや なんかがあったかなぁ~
専門店街には 多くの店がありましたが
今のガーデンモールの倍の規模はありましたね 輸入食材店や シキシマパン くつやに メガネ屋
第二期オアシスの横には ペットショップもあったし
ほんま あの頃の画像はありません すべて 頭の中(+_;)
「マスヤ」、あったあった。北千里まで線路が伸びてすぐの頃…小1でしたが…20円握って南千里まではじめて一人で電車に乗っていって、(たぶん何も買わないで)また帰ってきたことがありました。帰ってから「きょうひとりで南千里まで行ったよ!」と母親に言ったら目を丸くしていたような。藤白台育ちにとって南千里は、半分庭だし半分隣町のビミョーな異界でしたね。
剣道教室へ通っていた頃、小学校2年生(だったかな)の私は帰りの電車賃の15円か20円がなくて、重い防具一式を肩に担いでとぼとぼ4・5キロの道を歩いて帰ったのを思い出しました。
「マスヤ」は行った事があるはずなんですけど記憶にないんですよね。「いせや」は覚えているんですけど。
そういえば、切符の自動販売機って何時導入されたんでしょうか?剣道教室に通うのに、窓口で切符買っていた記憶があるんですが…てつさんならご存知ですよね(^^)
切符の事なら「鉄」の 奥居武さんに聞くべきでしょう(^_^;
「いせや」(おもちゃ屋)は 北千里にも
千里中央にもありましたね(^^ゞ ってまだあるのかな?
南千里の「いせや」は 専門店街の2階西側にあり 東側から通り抜け出来る広い店舗でした
剣道教室の頃は まだ プラネタリュウムも 図書館もありませんでしたよね(^^)
はい、順番を待っておりました。(笑)北千里駅は1967年3月1日の開設当初から、回数券、他社連絡券を除いては全部自動券売機で売っていました。南千里駅では全面的に導入されたのは1970年代前半ではなかったかと思います。1970年2月28日に改札が今の位置に移り、1973年9月15日から改札が自動化されているので、この間ではなかったかと。それ以前から(新千里山駅の頃から?)、梅田行きと天神橋行きの大人の切符だけを売る「単能式」の券売機はあったと思います。(…われながらこういう資料が出てくるのがスゴイ!)
「いせや」は今、北千里にも千里中央にもありません。北千里では1994年のリニューアル時にはまだあって、今の田村書店の位置に入りましたが、1990年代後半に店を閉めたと思います。「いせや」でいろいろおもちゃ買ったなぁ~お世話になりました…。
南千里にプラネタリウムと図書館ができたのは1978年です。
お二方、御回答ありがとうございます。
亡母と買い物に行くと、決まって弟と「いせや」「駸々堂(?)」で迎えに来るのを待っていたもんです。
南センターの「ジオラマ」何度見ても飽きなくて好きでした(^^)
南センターのジオラマ?
って あの 千里ニュータウンの?
先週日曜 ひっさしびりに 吹田市立博物館に行きましたが 3階ロビーにちゃんと展示してありましたよぉ♪
「いせや」に レコードの「ミヤコ」
別当スポーツも思いでの店です(^^)
いやぁ さすが 鉄 完璧ですね(^_^)b
自動販売機で切符は買ったけど
定期券も 自動改札通れましたっけ?
覚えてないんですよねぇ^_^;
南千里ネタは盛り上がる…ということがわかりましたので、今後のブログ運営に生かさせていただきます(笑)。
南センター専門店街は2階建で真ん中に大きな吹き抜けがあり、吹き抜けに面して西と東に一列に店舗が並んでいて2階通路はロの字型で…でよかったでしたっけ?
パソコンで字が出ない「駸々堂」!…この字で合ってます。120年の歴史を持ち、千里ニュータウンでは南千里と北千里にありましたが、残念ながら2000年に会社そのものが倒産し、ニュータウン内の2店舗は田村書店が引き継ぎました。
自動改札は定期券でも通れました。最初は数が多い定期券客だけでも自動化できないか…という発想から始まったようです。1967年に北千里駅に設置された初代改札機は「定期券用」と「切符用」の改札機が別でした。券幅が違う両者を同じ口に投入すると切符が中で泳いで詰まってしまう…という課題を、技術者が渓流を流れ落ちる木の葉を見て解決がひらめき…、というあたりはプロジェクトXのDVDに詳しいです。1971年に定期券と切符を一台で処理できる二代目機に置き換えられ、やはり北千里駅で様子を見てから阪急全駅に拡大されました。
そうです 北側にエスカレーター
南側は当時珍しい2段階のスロープした
通路はロの字でしたね
本屋さんは2階の ロの内側にありましたが 後期は 外(西)側の 別当スポーツの隣にも 漫画専門の店が出来てました
ホテルサンルート(現 ホテルマーレ)の2階にも本屋 レンタルビデオ屋がありましたが
今はどちらもありません しんしんどう?は千里中央にもありませんでしたか?
千里中央といえば「津田三共堂(字 違うかな?)」に良く行き スタンプカードの判を集めました(^^ゞ
てつさん、覚えてるうちに見取図を送ってください。ロの字型通路は、正確には2階店舗の両側を挟むように西に2本、東に2本走ってませんでしたっけ?「通路・店舗・店舗・通路・大きな吹き抜け・通路・店舗・店舗・通路」じゃなかった?
千里中央は、僕の記憶では田村書店と豊中文学館だけだったかと…(のちに旭屋書店もできましたが)。文具店は津田三協堂ね。今も同じ場所でにぎわってるし、スタンプカードもやってるんじゃないかな。
千里中央といえば、「セルシー」が思いうかびます。確かテレビの公開番組が放送してた記憶があります。阪急バスで行けるちょっとした「夢のある」場所でした。
ニュータウンの中の違う町や周辺に100円たらずで行ける阪急バスの路線調べに小学生の頃ハマッたことがあります。自分の町と少し違う終点に着くと、またそこからもっと遠くへ行くバス路線があって冒険心をかきたてられました。
セルシーの最近の様子はこんなです。
http://senri-g1964.at.webry.info/200801/article_4.html
すごい70年代な建物ですよね。
訂正。南千里駅の改札が今の位置に移ったのは1970年2月28日ではなく3月1日でした。2月28日は旧位置での最後の日です。
間違っていたらごめんなさい。
ビクトリアの前に「つくし」というそば屋がありましたね。
たこ焼き屋は「つくも」駅の下には八角が、
専門店街に向かうとサントリーのバーかなにかがあって
専門店街にはいると敷島パン、横は輸入雑貨のお店、和菓子屋、薬屋、向かいにそば屋の田毎、お好み焼きや?中華、突き当たりの動かないエスカレーターを昇ると
千里シューズ、向かいが眼鏡屋、いせや、呉服屋、
あとは瑞光?でしたっけ、時計屋があったような。
専門店街の見取り図が欲しいです。
南千里の八角は閉めてしまうようですね。昔からある店がまたひとつ消えてしまいます。残念。ほんとに一回オフ会やって見取り図書きっこしないとなあ。テキストだけだと「図の再現」にはどうも不便です。
オフ会面白そうですね。
大阪府タウン管理財団に問い合わせても
資料は残っていないと言われました。
みんなで完成させるしかなさそうです。
宜しくお願いします。
タウン管理財団にも問い合わせされたのですか。オフ会一度やってみたいですが、何人ぐらい集まってくださるのか、ちょっと心配…。それにしても南千里ネタは何でこんなにコメントがつくのでしょう?専門店の建物がもう変わっちゃったからかな?
問い合わせました。10年前に廃棄したそうです。
本当はどこかにあるのかもしれません。
南千里は日本が一番輝いていたときに
一番輝いていた場所で一番人口が多かった
からノスタルジーを感じる人が多い
のではないでしょうか?
私は藤白台で42年に生まれて
4歳から竹見台でした。
現在は河内長野です。
南千里の資料がないなら
なんとかして残したいですね。
一番確実な方法は、ガーデンモールの中で今もやってる古くからのお店に聞くことです。だいぶん数が減りましたが、何軒かは建物が変わってもがんばっています。頭の中の見取図を書いて持ってったら話がしやすいでしょうね(僕は南千里の記憶はいまひとつ薄いのですが、ある程度まとまったらこのブログで紹介してもいいですよ)。
南千里はやはりニュータウン開発当初のメインゲートでしたから、北地区の住民も中央地区の住民も、思い出が溜まっている総量が多いのでしょう。正確なお店のリストができたら南千里に造る千里ニュータウン建設記念館の資料にもなると思います。
北千里駅前も橋本眼鏡店が閉店し(僕が最初の眼鏡を作ったのはこのお店でした…)、ミヤコがサティの中に移転して、最初から同じ位置にあったお店がまた減りました。