あろうことか、ついに「市報すいた 6月15日号」で、このブログのことを取り上げていただいたので、初めてこのブログに来ていただく方もいるんじゃないかと期待して?ちょっとあらたまってよそゆきのことを書きます。
そうです、千里ニュータウンは「日本で最初のニュータウン」と紹介されることがあります。まちびらき(入居開始)は1962年。来年、2012年で50周年を迎えます!
「ええ?じゃあ千里より古いニュータウンって、ないの?」「枚方の香里団地は千里より古いけど、たしか香里ニュータウンって言ってるの聞いたことあるぞ?」「そもそも、ニュータウンって、なに?」
そうなんです。千里ニュータウンは「日本で最初の大規模ニュータウン」。で、「ニュータウン」の定義って、実は日本では法律的には決まっていません。ぶっちゃけ、ニュータウンって名乗ったらニュータウンだし、「大規模」ってどれだけ以上なのか、そこの線も明快なわけではないんです。
一般的にニュータウンのご先祖様とされるのは、ロンドン郊外の「田園都市」レッチワース。20世紀初頭、産業革命で都市への急激な人口流入が起き、煤煙の都会を逃れ、「田園」と「都市」が調和した理想的な住環境を郊外に…という「理想」からスタートしています。日本では早くも大正時代に、東京の田園調布や千里山住宅地が、その流れを汲んで建設されています。
イギリスでの田園都市はしだいに大規模化、システム化し、アメリカにも広がり、第二次世界大戦後には戦災復興の流れを汲んでイギリスでは「ニュータウン法」が制定されます。ヨーロッパ大陸では多くの都市が戦争で破壊されたため、少しでも多くの住宅を、システマティックに、限られた予算で、しかしある質は守って建設することは社会的に強く要請されたことでした。
戦争で多くの家を失ったことは、日本でも同じでした。「数が足りない」「質が悪い」住環境の中で、一つ屋根の下に複数の家族が暮らすことは、高度成長期まで、あたりまえだったのです。
そのうえ日本では1955年頃から奇跡の高度経済成長期に突入します。産業構造が変わり、多くの若者が農村部から都会に出てきました。
家も、道路も、つぎはぎで広がっていく中で、大量の良質な住宅を供給する仕組みが整備され、都市の郊外には「団地」が造られ始めます。それはバラックのような家に暮らしていた多くの日本人には、夢のような環境でした。
しかし人口の都市集中の勢いは、さらに大きな「計画」を求めていました。住宅だけではない、道路や上下水道や鉄道や学校や病院や…「都市」に必要な機能を「ワンセットで」造らないと、とても間に合わない…
そこで参考にされたのが、欧米の「ニュータウン」だったのです。
ですから「団地」と「ニュータウン」が建設された背景はつながっていて、初期の団地も年代が下がるほど大規模になり、ショッピングセンターを真ん中に置いたり、「住宅だけ」から「ニュータウン的」になっていきます。香里団地など、初期の団地のいくつかは「ニュータウン」というキャッチフレーズで売り出されました。この時期の団地にはほかに、千里山団地、多摩平、ひばりヶ丘(東京)、常盤平(千葉)などがあります(その多くは今、建替時期を迎えています)。
しかしたとえば香里団地は155ha、千里ニュータウンは1,160haと、(155haも団地としては十分大きいんだけど)その規模には大きな開きがあります。
千里ニュータウンは、びっくりするぐらい大きく、衝撃的でした。それはまさに「未来都市」で「実験都市」だったのです。日本中が、大阪北部の、それまで誰も知らなかった未開の千里丘陵に注目し、そのインパクトはさらにアジア初の万博開催地に選ばれたことで決定的になりました。
千里の「成功」を見てつぎつぎと全国に建設されたニュータウンは、1991年に建設省が行った調査によれば、公的主体による300ha以上のものだけで、39ヵ所を数えています(これを僕は全部一通り行ってみました)。
そして50年。千里ニュータウンは今も全国のニュータウンの先頭を歩いています。高齢化、老朽化、再生というサイクルの先頭を…
住んでいる人間が思っている以上に、千里は今、あらためて注目されています。地縁が薄い都市型の住宅地域が高齢化していく現象は、日本中で進んでいることですから…。一度に経済発展し、一度に造った住宅地は一度に高齢化する…その道筋は、これから必ずアジアの都市でも起きていくことです。
ヨーロッパから始まって、アメリカへ、日本へ、さらにアジアへ。「ニュータウン」はもはや一国の「文化」にとどまらず、国境を超えた大きな流れの中にある「現代の文明」と言ってもいいでしょう。千里ニュータウンはその中で輝いている、記念碑的な町なのです。
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