阪急千里線100周年!
- 2021/4/1
- 千里ニュータウン, 周辺地域
- まちづくり, 交通
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4月1日ですが本当の話。きょう4月1日は、阪急千里線が1921年4月1日に開通してから100周年です!最初の開通区間は、十三~豊津間。半年遅れて10月26日に千里山まで開通。豊津の先で墓地の買収に手間取って二段階開業になったようですが、千里線は豊津駅を出ると急に35‰の急勾配になるから、難工事でもあったのでしょう。
開通当時の社名は「北大阪電気鉄道」(現在の北急ではない)。この会社はわずか2年後の1923年に「新京阪鉄道」に買収され、1930年には新京阪も経営が傾いて親会社の京阪に買収され…1943年には戦時下の統制政策で、京阪がまるごと阪急と合併、「京阪神急行」に。戦争が終わって1949年、京阪は阪急から分離独立しますが、役員数で勝っていた阪急に、現在の京都本線、千里線、嵐山線を「置いて行かされた」のは有名な話です。(京阪から見れば会社が傾くほど投資したのにライバル路線になってしまった!)社名は「京阪神急行」のままでしたが、この時から当時の千里山線は阪急陣営に。1973年には正式名称も「阪急電鉄」になりました。
1959年までは淡路から天神橋に行くほうが「京都本線」で、千里山線は千里山から淡路まで。淡路から十三の間は「十三線」という区分だったのが、十三~梅田の三複線が完成して、「京都本線」は大宮~淡路~十三~梅田となり、「千里山線」が千里山~淡路~天神橋に組み替えられました。1967年に北千里まで延伸された際に「山」が取れて「千里山線」から「千里線」に。
地味な支線のようでいて、これだけ社名が変わった線も珍しいのでは?輸送量でいうと、ざっくり「ニュータウン以前の40年」と「ニュータウン以後の60年」に分けられます。車両は大型化し、3両編成は8両編成までつなげるようになりました。このホームを伸ばすために、旧市内では2ペアの駅が統廃合されています。(ニュータウンのために…申し訳ない…)
阪急吹田駅南でJRと交差する地点から、崇禅寺~南方間でもう一度JRと交差する地点の間は、旧東海道本線の廃線跡を再利用した区間です。切替地点の前後は急カーブが連続しています(崇禅寺のほうは1956年に曲線改良されています)。ちょうどこの区間は淡路駅前後の立体化工事で大きく姿を変えつつあります。やがて新幹線の上を千里線がまたぐ形になります!
時節柄イベントはないようですが、記念グッズ(缶バッチ)の販売と記念ヘッドマークの掲出は行われます。それにしても、ほとんどの沿線住民が知らないんじゃないかな~?100年なのに…。(きのう吹田市の職員数名に聞いたら誰も知りませんでした!「鉄道の町」を標榜しているのに…。)
ちなみに千里線は、北千里に行くほうが「上り」です。坂を上るからではなく、京都本線は京都方面が「上り」。東京に行くほうが「上り」という全国体系に合わせているのですね。
コメント
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2021年 4月 28日トラックバック:竹林を抜ければニュータウン | アラウンド・藤白台
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2021年 6月 07日トラックバック:大切なものがある千里山 | アラウンド・藤白台
母校前の橋の上からの写真!!大好きなアングルです
ここは桜もキレイで上品な阪急車両とのマッチング!!この写真も最高です!!
山田駅から歩いてきて最後にぐるぐる階段をのぼるのが苦痛で
津雲台の住宅沿いの細い道路を通っていました
(結局途中から許可証を譲ってもらってチャリンコで通学していましたが…)
100周年全然知りませんでした
自分の幼少の阪急電車の記憶は 山田駅がなかったことや エアコンがなくて窓を開けて走っていたこと
地下鉄車両は赤い帯がなかったこと などです
その時代を Nゲージで再現できたらと思っています(いつになることやら)
ここは最近、ちょっとした「撮り鉄ポイント」になってきています。土手のほうの桜が大きくなったのと、左手に植樹したほうもまあまあ見られるぐらいに花をつけるようになってきました。北千里と淡路では「記念缶バッチ」を発売しているのと、千里山~南方の各駅ではミニパネルの展示もやっています。(写真は各駅違うようです。)
https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/63b98805d3e536cda2641549b948d0d11f00fdfb.pdf