(前回のつづき) 千里ニュータウンの初期の玄関口として大勢の住民や来訪者を出迎えてきた千里南地区センタービル、同窓会で昔の友達に会ったらどうしても昔の面影と今の顔が一致しなくて困ってしまった…みたいな話でした。9月19日のイベントで1964年完成当時の写真(多比良敏雄さん撮影)が展示されていたので、さっそく現地で定点観測を試みた、その2回目。(左が1964年、右が2011年。この文字をクリックすると大きく見られます)
2階北側のデッキから屋内に入って南を見たアングルですが…ぜんぜん違う!これは記憶と目の前の姿が一致しなくても仕方ありません。本当にこれが同じ場所か?と、会場で接写した昔の写真と現状を見比べてみたのですが、たしかにこれが同じ場所なんです。つまりこの写真で正面(南側)も左手(東側)も大幅に間仕切りを増やしているのです。ではこの写真で右手の吹き抜けに面した手すり越しに、西側の2階と中3階のフロアを見てみましょう。(2枚目以降は画像をクリックすると大きく見られます)
こちらも完成当時は広いオープンスペースであったのが、大幅に仕切りを増やして小部屋にして使っていることがわかります。このアングルもまるで印象が変わってしまっていますが、左奥の西側階段に続く部分など、これがたしかに同じ場所です。天井のフロア照明だけが、完成当時の面影を伝えていますが…。ではこの左手階段を半フロア上がって、中3階のフロアの端から逆に東側を見てみましょう。
そうか、憧れのマドンナだった彼女は目の前のあなたでしたか…と絶句するような変貌ぶり…。昔の写真や映像だけ見ていたらどこがどこだかさっぱりわからず、フロアを継ぎ足したんじゃないか?とまで思っていたのですが、フロアはそのままなものの、広いスペースを細かく仕切ったために視線の抜けが全く失われてしまっています。
ようやくわかったのは、このビルは吹き抜けを境に西側は3フロア分(1階、2階、中3階)の高さを、東側は天井を高くとって2フロア分(1階、2階)に造られています。なので東半分は1階だけじゃなく2階の天井がとても高い。その内部を、オリジナルではまるで一室のように広~く使っていろいろな機能を大部屋でこなしていた…ということです。空間が広いので特徴的な南面のファサードも内側から広く見渡せた。現状はこの大空間を細かく仕切っているために、せっかくの天井の高さが全く生きていず、ファサードも見えません。ずっと僕はこの天井の高い空間が1階だと思い込んでいたために、どこをどう変えたのか、さっぱりわかりませんでした。でもこれが2階なんです。
この大空間は吹き抜けの空間ともつながっていて、さらに西側とも仕切られていなかったわけですから、夏はいいとして、冬は寒かったでしょう。まるでビルの中が全部一室なのと同じような造りだったわけですから。
まったく新しい町…ニュータウンの玄関口になるビルを広い大部屋一室で構成するという大胆な設計は、まさに「思想」だったと言っていいと思います。つまりそこが共同体の中心になるというシンボル性です。その一角には、ニュータウンの完成予定ジオラマも置かれていました(3枚目の写真の左の柱の向こう側)。皇族や大臣もこのジオラマを見ながら説明を受けている映像が残されています。(追記:このジオラマのミニバージョンは、今も千里ニュータウン情報館で見られます。)
しかし主要部分が大部屋一室というのは、冬寒いだけじゃなく現実には使いにくかったのではないでしょうか?皇族が来たときに住民サービスはどうしていたのでしょうか?この変わりぶり、とても胸が痛みますが、ニュータウンの理想と現実を象徴しているようにも思えます。
僕もこのビルにはとても思い出と思い入れがあります。南千里駅が新千里山駅だったころ、藤白台からここまでつれられて来るのは「よそゆき」の用事で、母の用事が終わったあと、ジオラマを眺めてニュータウンが「全部できたらこんなになるのか~」と胸をわくわくさせていたことは今の自分の原点かもしれません。
しかしニュータウン育ちとしては、ニュータウンはいつも「ニュー」を見ている町であってほしく、この古いビルの保存に使う労力があったら、若い世代にチャンスを与えて「もっといいもの」を造らせる…という方向にどうして発想が行かないのか?それが残念です。もう南センターの再配置は進んでいるし、保存案には資金の裏付けがない。ニュータウン計画はいつも現実を無視してはありえなかったはずです。建築学会の英知を集めて、3DCGでバーチャル保存するといった発想は出てこないものでしょうか?
はぁ~、マジメになってしまった…
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コメント (28)
私の拙い記憶によれば、
64年当時の写真ほど広かった記憶がありません。
もしかすると、完成から数年後すでに部屋は仕切られていたのでは?
いつ今のようになったのか、それはわかりません。1978年にプラネタリウムと図書館のある別棟を増築しているので、そこが大きなタイミングだっただろうとは推測できるのですが…保存の声が強いわりにそういう検証を発表する人がいないのも不思議です。
私が佐竹台で生まれたのが66年、
佐竹台から藤白台に転居したのが73年です。
78年の増築時には私は藤白台からも転居してしまいました。
センタービルは私の幼少時の思い出深い場所のひとつです。
73年の転居の時にはまだエスカレーターはありました。広かった記憶もないので、73年の時点で仕切られていたのか?よくわかりませんが。
解体前に「南地区センタービルの思い出」座談会でもやりたいですね(笑)
藤白台でも5年暮らしましたが、いじめられっ子だったせいか、藤白台ではあまりいい思い出がないので・・・(泣)
これは本当に「オフ会をやるに足る」トピックですね。南千里は駅も含め変化が大きいので、話すことが多いし、途中の変化もちゃんと記録しておかないといけません(お店の入れ替わりとか…)。保存か解体か、という二元論にはまってしまうと、(議論に火をつけてしまいそうで)思い出が語りにくくなるのも困ったものです。ちなみに僕もいじめられていましたが、なぜか藤白台に残ってこんなことやってます…(爆)
オフ会ぜひやりましょうよ!!
会場はもちろんセンタービル会議室で(爆)
懐かしい昭和40年代の千里ネタありまっせ(笑)
じゃあ11月ぐらいにオフ会企画しましょうか。会場はやはりこのビルがいいですかね。できれば南センターの記憶復元とかやりたいですね。
土日はまだスケジュール未定なのですが、
祝日は確実に休みです(笑)
オフ会11/23(祝)希望!
11月23日、あいてます!じゃあ最少催行人数2名ということで、決定!場所とかやり方とか、決まったらブログでお知らせします。南センターの記憶を持ち寄って記憶復元するとか。このブログ初のオフ会…ドキドキ!
(3枚目の写真の左の柱の向こう側)完成予定ジオラマが岸辺小学校の倉庫から救出され博物館ではじめて展示されたときの写真がありました。
http://sui-haku.at.webry.info/200905/article_258.html
このジオラマ模型、今は細い脚がむきだしですが、昔の写真を見ると裾カバーや手すりもセットになっていたようですね。実は今、ジオラマの細部で団地の棟が取れて道路に横たわってたり、幼稚園と保育園の表示が逆になっていたり、ちゃんと修復したい場所を何ヵ所か書き出してあったのですが、それを直さないでカバーのガラスだけ修理してしまいました!来年秋の50周年までにはきちんとしたいものです。このビルにはこのジオラマのほかに佐竹台、高野台、津雲台の初期3住区だけのもう少し縮尺が大きなジオラマもあり、それには計画の初期の段階が反映されていたと思うのですが、これはかなり早い時期にどこかへ消えてしまいました。…5歳や6歳だったのに、なんて覚えてるんだろう!ぽろっと倉庫からとか、出てこないかなあ。
11月23日(祝)午後より参加希望 ってどこに申し込めばいいんですか?(^_^;
2次会は カフェバー「ハボット」って事で(^^)
以前 ハボットで飲んでた時 旧南千里商店街の元気なOB OGさんがおられ、どんな店があったか書き出したことがあります どっかにあるはずだから持って行きますね
そうだ このブログの読者で 25年ぐらいまえに多分 摩周湖ユースホステルで会ってるだろう 元竹見台の住人 みけねこさんにも声をかけてみよっとぉ♪
旧南センタービル商店街の想い出・・
①生まれて初めて買ったレコードが太田裕美の木綿のハンカチーフ 2階のレコード屋「ミヤコ」に恥ずかしがり屋だったから赤面しなから買いに行きました。
②一階に酒屋さんが2件あり、北側の店の前の自販機に ミリンダが売ってて、ファンタより量が多いのでよく飲みに行った・・
③「グリル幹(ミキ)」珈琲屋に勤めた時、得意先でおやっさんにはよくしてもらった。
④1階 シキシマパンでおいしいパンを買ってもらった。
⑤生まれて初めて買ってもらったメガネは「メガネの千里」だった。
⑥おもちゃのいせやは 僕もそうだが 娘 息子もお世話になった。
⑦別当スポーツに中学の頃、よくキャンプ用品を注文して買った。
⑧本屋でまんがを立ち読みしてるといやみな店員に奪われ仕舞われた。
⑨中華聚楽の店頭で売られていた豚まんを千里山のおばあちゃんがよく買ってきてくれた・・
⑩阪急共栄ストアーの揚げ物コーナーでよくアメリカンドッグやコロッケを買い食いした。
てつさん、南センタービルでやりたいんですが1ヵ月前にならないと申し込めないので、午後時間だけあけておいてください。またブログで告知します。ところでお店の思い出は、名前だけでなく自分の体験とつながっているところ、さすが地元っ子ですね。
では、23日楽しみにしておきます。どんどん思い出すのが、あのビルの一階にあった「グリル・ビクトリア」は、西洋料理に感心のあった父によく連れて行ってもらいました。とても楽しみだったんですよね♪ビクトリアのあと、何度か店舗が変わったんだよなぁー
専門店街でなく南センタービルのほうにもお店がありましたっけ?オフ会では「昔の南千里記憶復元」をやりたいので、地図やメモ、写真などがあったら持ってきてくださいね。
南センタービルにもお店はありましたよ グリル・ビクトリアを筆頭に バー・ハボットもあったし サントリーバーもあったはず たこ焼き駒さんの向かいに カウンターだけの居酒屋もあったし 手芸・模型ほビーもそうだし 大阪ガスのショップに 電気屋さんもありました
これはすべて専門店街ではなく 南センタービルにありました。
てつさん、そのあたり現場検証も交えて皆で「思い出し大会」をしたいですね!(僕はジオラマのことしか覚えてないけど…)手書きでも簡単な見取図があるといいような気がします。
見取り図は2年前に手書きで作りましたが
どこにやったかな?探してみます
あまり外食をしない家だったのですが、
専門店街の一階のうどん屋さんに、
時々連れていってもらった覚えがあります。
名前何だったかな?
藤白台に転居してからは、北千里駅2階の水車に行きました。
あと「思い出し」のネタになるようなもの、なんでも大歓迎です!写真とか地図とか…
北千里の2階の「水車」は、うちでもたまに行きました。お隣の席で「かしまし娘」の皆さんが食べていたり…お店が少なかったからちょっとした社交場でした。「水車」もなくなってずいぶんたちますね。ひところ小野原のほうでやっていたのですが、それも今検索すると出てこないようです。
「水車」はバリアフリー工事でエレベーターが別のところにできることになり閉店されたと聞きましたが桃山台駅に最近までありましたよね北千里 小野原 チェーン店だったのか?
千里ニュータウンの居酒屋と言えば「八角」南千里店も昨年閉店して寂しくなりました。
でも、一番の想い出は 屋台のたこやき屋 しょうゆ味でうまかった。あの店に思い出あるひと多いんですよ
今日、南千里駅前を車で通りかかると、
ああ何と、南センタービルが解体中でした。
跡地にはマンションが建つそうです。
また一つ、思い出の場所が解体されてしまいました。本当に残念でなりません。
そのマンションのチラシが入っていました。せめて外観に工夫でもないものかと完成予想図を見ましたが、まったく普通のマンションでした。このセンタービル、この記事で検証したように中がすっかり改造されてしまって、オリジナルの「カッコよさ」を保っていたのは最初の数年間だけでした。千里のいろんな建替、僕は「仕方ない」と思っていますが、じゃあ建て替えたあとのほうがカッコイイもの造れってんだよな…。大半のケースがそうじゃないのが残念!
屋外彫刻の下見を兼ねて、山田下から佐竹台を通り、南千里から山田駅前、消防署、藤白ロータリー、小学校、幼稚園を通って北千里駅。北小学校から千里中央へ。
本当に、ずいぶん変わりましたねぇ。「青春のお通り」の舞台、佐竹台の団地も更地になっていました。南地区センタービルは瓦礫の山。ちなみに私、佐竹台を出て40年になりますが、本籍はまだ「佐竹台」のままなのです。
中に住んでいると変化を毎日見ていますが、ひさしぶりに来たらビックリするでしょうね。これでまだ、全部の集合住宅の半分ぐらいしか建替終わってないと思います(UR賃貸の低層棟は建て替えない予定)。戸建はすでに、9割以上が最初の建物じゃないでしょう。それだけ新陳代謝できるというのは、ある意味すごいことです。
新陳代謝というのは、老朽化したものが新しいものと入れ替わることのはず。私が複雑な思いなのは、私にとって千里は老朽化した場所ではなく、幼い頃に見た未来、レトロフューチャーなのです。だから、未来が取り壊され平凡な現代に取って代わる、これを新陳代謝として受け入れるのが難しいのです。当時、千里は世界最先端の場所でした。踏切もない、駄菓子屋も神社もない、ウルトラヒーロー番組に出てくるような未来都市が、現実に自分達の住む街としてすぐそこにあったのです。その感覚は今でも何も変わっていないのです。千里から離れてから、その思いはますます強くなり現在に至る(笑)
「最先端の未来都市が平凡な現代に置き換えられていく」というのは鋭い視点ですね。最初期の千里を、子供の視点で見ていた人だけが持ちうる視点かもしれません。で、途中で離れた人のほうがその視点をそのまま自分の中に保存しているという図式…。僕は中にいて現実にまみれちゃってますから、こんなブログで微力な抵抗をするのみです。同じニュータウン育ちでも、もっと町がくたびれてからしか知らない世代は「まったり」しているような気がします。万博が「未来の記憶」を固定化したという効果も大きいでしょう。僕は竹藪切り開いてドカチンで杭打って舗道のタイルを敷き詰めていたころから目撃しているので、すべてはカキワリの世界の中のことのように思えることもあり、意外とさめてるかも?でも「手を加えるほどダサくなる」というのは何とかしてほしいとは思います。